記憶探しの女、猫探しの男

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 そうして今日、私は「新しい幸せ」を探すための人生の再スタートを切った。だからと言って特に生活に変わりがあるようには思えないのだけど。朝起きて、コーヒーを飲んで、朝食を食べて出勤して、家に帰って余力がある日はTOEIC対策の勉強をした。夜を勉強の時間に充てるのは久しぶりのような気がした。  そんなノーマルな毎日を繰り返す。メトロノームのように淡々と快活に、テンポよくすぎる日々が続いた。  あるときは、ちょっとハンサムな同僚に食事に誘われたり。他のあるときは中学生時代に好きだった先輩とインスタで繋がったりなんかもして。 「若いねぇ」と、母親や母親世代の同僚に揶揄われて、嬉しいようなくすぐったい気持ちになることもある。それでも、気づけばもうじき三十歳。そろそろ安定した恋愛がしたいかもなぁ、とぼんやり考えるようにもなった。  勤務年数が最長になる私は、ついに十二月から店長を任されることになった。市外から三十分かけて職場へ通っていた私は、お店の目の前のアパートに引っ越すことに決めた。もともと一人暮らしで荷物は少ないし、引っ越し代は会社から支給されるというのだ。新たな土地で新たな出会いをちょっとだけ期待しているのは内緒だけれど、心機一転するのにはいい機会だ。  なんとなく浮かれた気持ちで荷造りを進めているある日のことだった。ベッドの下のガラクタを詰め込んだダンボール箱を久しぶりに開けたとき、記憶にない謎の物体に目が留まった。箱の底に群青色の毛糸の切れ端が何本も何本も散らかっていたのだ。集めたらフリンジが作れそうなくらいたくさん。これは一体、なに?他のものは全部わかる。昔に集めていたマスキングテープ、ハンコ、トランプ、サイコロ。子どもの頃に家族や友達と遊んだ思い出深い物品たちだった。でも、これは……?この毛糸だけはほんとに心当たりがない。何なんだろう、これは。なんだか不気味だけど、どうしてか捨てる気にもなれなくて一本だけとっておくことにした。いつか思い出すのに手がかりになるかもしれない。  他にもちょっと不思議な体験をすることがある。これは『アフィン』の副作用としても有名な話だけれど、初めて見るものへの既視感、デジャヴというものをよく見るようになった。例えば昨日見た夢。  私はひとりでネットカフェにいた。現実では行ったこともないのに、なぜか内装まで具体的でハッキリしていた。もちろん夢の中で架空の街やショッピングモールがあったり、ありえないようなことが起こったりすることは今までもあったし、誰にでもあるんだと思う。けれど今回の夢が特殊な気がしたのは、懐かしい匂いがしたからだ。目が覚めてしまった今ではあんまり具体的に思い出せないけれど、清潔感があって落ち着く匂いで、それはネットカフェの個室の外へドリンクを取りに行くときを思い出させる「懐かしい」感覚だった。「前に来たときは誰かが一緒にいたはずなのに、今はひとりぼっち」そんなことを感じていた。しかし、いまいちど思う。私はネットカフェを利用したことがないのだ。ネットカフェの内装を、ドリンクフリーの仕組みを、なぜ懐かしく思うのだろう。それに加えて「思い出の誰か」が誰だったのかはますますよく分からない。夢を思い出す限り、若い男性だったはずだけど。夢の中だけでの元恋人?そうだ、きっとそう。ともかくどこか懐かしくて愛おしくて、切なくなるその夢がありきたりな日常になんだか心地よかった。またこんな夢が見たいなぁ、と心のどこかで願ってしまうのだった。  店長への昇格した私は店の経営や顧客情報の管理まで任されるようになり、体力的にも精神的にも格段に忙しくなった。そんな忙しい中、休日を丸一日使って引っ越しを済ませた。それが終わると、今度は同じアパートに住むご近所さんへ挨拶に行かなければいけない。 「ニ〇ニ号室に引っ越して参りました。河野と申します。よろしくお願いします」  隣に住むおばあさんは、愛想がよく、挨拶に行っただけなのに冷蔵庫にたくさんあるのだと言う団子を分けてくれた。反対隣に住む若い女性は同じ歳だということが分かるとプライベートなこともよく話してくれた。新生活に、私の味方でいてくれるご近所さんは貴重だ。  下の部屋の人は、滅多に家にいることはなかった。物音がするのは夜中ばかりで挨拶に行けるような時間ではなく、タイミングを逃したままだった。ところがある夕方、翌朝のゴミを捨てにいったときに、一〇ニ号室の戸が開くのを見た。 「初めまして、上の部屋に引っ越してきました河野です」 「あ、どもー。浅井です」  浅井と名乗ったその男性は、爽やかで気さくな印象だった。ひとめぼれとはほど遠いけれど、特殊な類の好印象を与える男性だった。どんな人なのかな。 「そのマフラー、センスいいですね。群青色がよく似合ってます」  身につけていたものを褒めてみると、浅井さんは首元を弄りながら話してくれた。 「へへ、いいでしょう。むかし飼ってた猫、毛糸で遊ぶのが好きで。仕事で1日家を空けるってなったとき、この毛糸で遊ばせといたんです。それで帰ったらもうびっくり。このマフラーが編み上がっていたんですよ」  そう言って見せてくれたのは、網目の荒いマフラーだった。どう見てもやや不器用な人間の手業であり、猫の作品というには無理があった。それにも関わらず 「そうだったんですね」  『アルジェブラ』の存在を知っている私は、まあすんなりとそれを受け入れることができた。  十二月の夕方。午後五時を回るか回らないかくらいの時刻。陽は既に沈んでいて、空は明るげな暗闇が広がっていた。そのとき、パッと一斉に街中がLEDで煌めく。 「「あっ」」 「イルミネーションの季節ですね」  浅井さんは首から下げていたカメラを発光する街並みに向かって構えた。マフラーに顔を埋め、大きなカメラで顔を隠した浅井さんの表情は、心なしか照れているようにも見えた。私の目の前で、四方八方の輝きを順番に撮っていった。 「河野さん知ってました?ここ、目立たないけど斜向かいにネカフェがあるんですよ。このアパート、冷房がついていないので夏は自宅にいたくなくて。よく猫とネカフェに入り浸ってたんですよね」  ペットとの入店を許可するネットカフェなんてあるのだろうか。 「へぇ、浅井さんは猫がお好きなんですね」 「まぁ。猫ならなんでもいいわけじゃないですけどねー。あんなに完璧でかわいい猫にはもう出逢えないから……」 浅井さんの猫がまた見つかりますように、夜空を見上げそっと願った。
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