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「ああ、そう。走るの?」
運転手はハザードランプを出して、メーターを清算し始めた。
「もう生まれるかもしれないんです。」
徹は財布を取りだすと、一万円札を二枚、運転手に突き出した。
「お釣りはいりません。」
人生でこの言葉を言う日が来ようとは思ってもいなかった。でも、今恰好つけないで、どこで恰好つけるのだ。もし、人生で一回この言葉を言うタイミングがあるのなら、ここしかありえないと徹は思った。
ありがとうございますと言って二万円を受け取った運転手の前のメーターに表示されていた金額は一万九千八百円だった。
徹はタクシーから飛び出して走った。
「お父さん、頑張って。」
背後でそんな運転手の声が聞こえた。
小雨の中を徹は走った。運動不足のなまり切った体はすぐに息切れをしたが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。玲子は無事だろうか。そして、子供も無事に生まれてきてくれるだろうか。そんな事を考えていた。まだ、子供の名前も決めてはいなかった。子供の一生を背負う名前だと思うと、なかなか決めきれず、生まれて顔を見てから決める事にしたのだった。
「川村ですけど、妻と子供は。」
徹は病院に駆け込むなり叫んだ。受付のナースと待合室にいた妊婦が一斉に徹を見た。徹は息も髪も乱れていた。
一人のナースが駆け寄ってきた。
「川村さん。もう生まれますよ。こちらへ。」
徹にとっては初めての経験も、ナースにとっては日常である。慣れた様子で徹を案内するナースの後をつけて、廊下を進んだ。
反対方向から一人の女医がやって来た。徹の前を行くナースがそれに気づいて立ち止まった。
「本田先生。こちら、川村さんのご主人です。」
本田医師が徹に目をやった。ナースは軽く本田医師に頭を下げると廊下を引き返して行った。
徹は玲子の言葉を思い出していた。産婦人科での担当の医者について話していた。その担当の医者の名前…本田先生。
「…本田先生。玲子の担当の先生ですよね。あの、妻は…、子供はどうなりました?」
「無事に生まれましたよ。母子ともに健康です。」
本田医師の言葉が徹の体を突き抜けていった。
徹は崩れ落ちるように、膝に手を置いた。五〇〇メートルダッシュの疲れが、一気に噴き出したようだった。徹は安堵感に包まれた。良かった、本当に良かった。出産に立ち会うという約束は果たせなかったが、それも玲子と子供が無事に生まれてくれたのなら、とても些細な事に思えた。こうして、男は父親になっていくのかも知れないと思った。
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