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1. 誕生と絶望
また、タクシーが信号に引っ掛かった。川村徹は運転席と助手席の間から顔を出さんばかりに運転手にプレッシャーをかける。運転手もそれを感じてはいたが、信号無視をするわけにもいかないので、徹を無視していた。
「ちょっと、運転手さん。もっと急いでよ。」
ついにたまりかねた徹が口を開く。
「そうは言ってもね、お客さん。赤なんだから、進むわけにいかないでしょ。」
徹はため息をついて、後部座席にもたれた。無理を言っている事は徹も分かっている。しかし、道路交通法もすっ飛ぶほど急ぐ理由が徹にはあるのだ。
信号が変わりタクシーが動き出す。
「なんでそんなに急いでるのよ。」
徹からのプレッシャーにうんざりしたように運転手が慣れ慣れしい口調で尋ねた。
「あのね、俺は産婦人科病院へ急いでくれって言ってるんだよ。三十四歳の男が、そんなところへ急ぐ理由なんて一つしかないでしょ。」
徹が病院からの電話に気付いたのはほんの三十分前だった。仕事の会議が終わり、ふとスマートフォンを見ると着信が十件も来ていた。慌てて掛けなおすと、対応したナースは予定日より少し早いが、もう生まれそうだと言う。初めての出産に不安そうだった妻の玲子に、あれだけ何度も必ず立ち会うから大丈夫だと言って励ましたのだ。それなのに、徹は今、その約束を果たせるかどうかの瀬戸際に立たされてしまっている。
「ああ、これ産婦人科なの。」
タクシーの運転手は呑気に答えた。確かに、徹は病院の名前と、最寄りの駅を告げただけで、それが産婦人科である事は告げていなかった。
徹は冷静ではなかった。こんな状態では、病院に駆けつけてもかえって迷惑をかけるだけかもしれない。
「一人目?」
徹と運転手の目が、ルームミラー越しに合った。
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