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僕があまりに見つめていたのに気づいて彼女と目が合った。
「あ、その……」と狼狽えている僕に向かって彼女はかすかに笑って自分のお城を動かして丁度一人分の席を空けた。
——座れってことか。
「失礼します」と言って彼女が空けてくれた席に腰を下ろす。彼女が缶を下ろして「ぷはあ」と唸るたびアルコールのにおいが鼻に突く。母さんが下戸で飲まないから、女性から発せられるこの匂いは独特に思えた。
「こんな虫が飛んでいる公園で一人缶ビールですか?」
「これはビールじゃなくて発泡酒」
彼女がこちらを向いて言うものだから余計に酒のにおいがきつくなる。思わず眉間にしわを寄せると、彼女はふふふと笑って組んでいた片足をぴんと伸ばした。
「ホンモノのビールはもっといいにおいがするよ」
そう言われても僕には本物のビールがなんだかよく分からない。
「じゃあ本物じゃないビール、発泡酒をどうしてこんなところで飲んでるんですか? 居酒屋とか家で飲んだ方がおいしいでしょう」
「夜をサボってるの」
彼女はつま先で脱げかかっているヒールを見つめながらつぶやいた。
「夜をサボる?」
「そうよ」と返されたが、いまいちピンとこなかった。彼女が話し続ける。
「朝サボることとか昼から早退することはあるでしょう。でも、夜はない。だから私は夜をサボっているの」
あるでしょうと僕がサボっている前提で話を進められるのは納得できないが、そこは半紙の本筋ではないためぐっとこらえた。
「夜はサボる必要がないからないんじゃないですか。夜は自分の時間だから」
「だからサボれるんじゃない。仕事や学校は休んだら誰かに迷惑かける。人に迷惑をかけてまでさぼったらその時間ずっともどかしい気持ちで過ごさないといけない。その点自分の時間をサボるのは自分にしか迷惑かけない。自分になら迷惑かけたっていいでしょう」
そう言われると彼女の言い分が真っ当な意見に聞こえてくる。でも、そんなこと普通の人は考えない。サボりたいときに誰かのことなんて考えない。自分の時間は大事にしたい人でこの世は溢れているのに、彼女はその真逆を生きている。それだけ人を気にして、神経をすり減らして生きている。
だから、彼女を見た時に夜だと思ったのかもしれない。
「夜をサボる、か。いいですね」
「いいでしょう。君も一緒にサボらない?」
彼女がビニール袋から新しい缶を二つ出して、片方を僕に渡してくる。目の前の麒麟のイラストに驚いていると彼女が柔らかな笑声を上げる。。
「乾杯だけ。一人だけで飲むのは悲しいじゃない」
薄暗くてもわかる彼女の瞳と目が合って思わず見惚れる。真っ黒な綺麗な瞳だ。
僕は彼女から缶を受け取る。缶は冷たいのに、少しだけ触れた指の温もりが胸を熱くさせる。
「それじゃあ、夜のサボりに乾杯」
二人が合わせた缶のカチンと鳴る音が夜の闇に溶けていく。夜風に流れてアルコールのにおいと僕のではない柔軟剤の香りが混ざっている。
僕は初めて酔った。
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