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「樹」と名前を呼ばれると僕の中にあるスイッチが入る。どこにあるのかもわからないし、本当にあるわけではないけれど、確かに体の中でカチッと音が鳴る。
「昨日のサッカー見た?」
「うわ、見るの忘れてたあ。どうやったん」
僕が興味を示すと友達は身振り手振りを加えて熱く語り始めた。僕は時々相槌を打って応対する。彼の話しぶりに周りのクラスメイトも集まって、僕の周りはサッカースタジアムさながらの熱狂に包まれた。
PKで試合が決まったという話が終わったと同時に授業の始まるチャイムが鳴って、周りにいたクラスメイトもその友達も波が引くように自分たちの席に戻る。
化学の先生が授業を始める中、僕はごく自然と溜息を吐いていた。別に友達のことが嫌いなわけじゃない。ああやってみんなで盛り上がるのが苦手なわけでもない。でも、どこか無理をしている自分がいる。さっきの溜息は自分への虚しさからだ。
僕は窓の奥に見える空に目を細めた。青く澄み切った空と濃密な雲が憎たらしい。ふと、昨日出会った彼女が思い浮かんだ。あれから僕と彼女はお互いのことを語り合った。彼女は新宿にある広告代理店に勤めていて、歳は二十七。ちょうど十個上だと言ったら「こら」と笑みを浮かべながらわき腹を小突かれた。
彼女も自分を作って過ごしているのだろうか。特に次会う約束とか交わさなかったけれど、またあそこに行けば彼女に会えるのだろうか。
僕は化学のノートとは異なる、キャンパスノートを開いた。昨日の出来事を大まかにまとめていき、そこから派生させて細かな描写やあの時の心情を書き留めていく。
誰にも話してないことだが、僕には作家になるという夢がある。もともとは絵本作家になりたかった。それは小さい頃から絵本が好きだったから。でも、十歳の時に出会った小説が僕の夢を変えた。瀬古晴也さんのデビュー作を初めて読んだときは心が震えた。センシブルな言葉の使い方に感動して、夏の天気のようにころころ変わるストーリーの展開にページをめくる手が止まらなかった。それから瀬古さんの作品を追うように読んだが、デビュー作は台詞を覚えるほど読みこんだ。最近はぱったりと途絶えているけれど、作家になればいつか会えるかも、と淡い期待を抱いて作家を志すようになった。
今度会ったら彼女に瀬古さんの話をしよう。あらかた整理を終えたノートを閉じて僕は窓の外を見上げた。消え入りそうな月が輝くにはまだ時間がかかりそうだった。
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