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家には幸い姉ちゃんがいなかった。そういえば今日は智也さんの家に泊まるって言ってたっけ。とりあえず湯舟を溜めて彼女にはお風呂に浸かってもらうことにした。その間に彼女の濡れた服を乾燥機で乾かして代わりの服を用意する。姉ちゃんの至福に手を付けるわけにもいかないので、自分のクローゼットからできるだけ最近洗ったスウェットを取り出した。においを嗅いでまだ柔軟剤の香りが持続していることを確認したうえで脱衣所に置いてきた。
二十分、いや三十分ぐらい経っただろうか。自分が普段いているスウェット姿の彼女がリビングに現れたときは、耳の後ろがこそばゆかった。
僕はホットココアを入れたマグカップを持ってテーブルに置く。
「君はお風呂入らなくていいの?」
「髪も乾かしたし、着替えたんで大丈夫です。乾燥終わるの二、三時間後ぐらいですかね」
「生乾きでも大丈夫よ。おかげで体ポッカポカだし」
彼女は湯気の立つマグカップを両手で包んでそっと飲む。まだ少し濡れてシャンプーの香りがより引き立つ髪が僕を陶酔させていく。メイクも落としてスーツじゃなくてスウェット姿の彼女はいつもより幼く見えた。
「そうだ、君の小説ってどこにあるの?」
ココアを半分呑んだところで彼女が聞いてきた。それから僕たちはリビングから僕の部屋へと移動した。僕が机の上に散らかった原稿用紙を整えている間、彼女は本棚をじっくり眺めていた。もちろんその中には瀬古晴也さんの小説も並んでいる。
「まだ途中ですけど」と言って渡すと、彼女は静かに原稿用紙に目を通した。その間やることがなかったので僕は濡れた彼女の持ち物を拭くことにした。
「ここさあ、もう少し展開を大きくした方がいいと思うかな。例えば」
彼女の指摘を聞くと、確かにその方が物語のボリュームが増す気がして、著者である僕でさえ続きが気になりだした。僕は彼女の名刺入れを拭きながら純粋に感心していた。
「すごいですね。まるで瀬古さんみたいな——」
中の名刺もぐしょ濡れになっているのに気づいてくっつく前に取り出そうとした手が止まった。名刺は彼女の言っていた広告代理店の者がほとんどだが、後ろの方に少し色あせた名刺に僕は釘付けだった。
「どうしたの」と固まっている僕の手にあるものを見た彼女は目を伏せた。そして哀愁漂う笑みを浮かべて垂れた前髪を耳にかけた。
「まるでじゃなくて、本物でしたってのも小説っぽくない?」
「……なんだよ、これ」
僕の手はで震えていた。確かに名刺には『作家 瀬古晴也』と書かれている。
「あの人って男だろ。名前からして」
「アナグラム。瀬古晴也をローマ字にして」
そう言って彼女が机に転がっていたペンとメモ帳にローマ字を書いていく。細く滑らか時を茫然と眺めていた。
「入れ替えたら、ほら。これが私の名前」
SEKOHARUYA
KUREHASAYO
彼女、瀬古晴也、いや呉羽小夜は申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
「じゃあなんだよ……」
僕は乱暴に小夜から原稿用紙をひったくる。男の力に小夜はびくりと肩を震わせた。
「僕が小説書いてるって知って、アンタどう思ったんだよ。どうせこのガキも夢朽ち果てる未来が待っているって心の中で笑ってたのかよ!」
「私はそんな……」
小夜が弁論する間もなく、怒りの言葉が治まらない。
「だってあんた全然書いてないじゃん。作家辞めたんだろ。だったらどうして『すごい』だなんて言ったんだよ。どうして応援する気になったんだよ!」
自分でも制御できない感情をぶちまけたせいで動悸が激しい。そんな僕を前に小夜は震えていた。寒いからじゃない。怯えていた。
しばらく沈黙が続いた。僕は小夜のことが許せなくて、それ以上に自分が許せなくて部屋のドアを開けて外へ出た。頭を冷やさないと、思ってもないことが口から出そうだった。外は雨に続いて、風も強くなっていた。僕は横風にあおられながら階段を降りてマンションのエントランスを出た。道路に続く院段に腰を下ろして空を見上げる。空は闇に包まれていた。
僕は部屋で小夜に言ったことを悔いた。あんなこと言いたかったわけじゃない。彼女がそんな風に思ってないことなんてわかり切っている。小夜が僕の憧れの瀬古晴也だろうが何だろうが関係ない。あの公園で会っている僕たちは心を通わせていた。僕はそう思っていた。なのに、彼女は。
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