18人が本棚に入れています
本棚に追加
まさか遺書ではないか。そんな気がして、ほんの少しだけ読むことにした。
『僕は母親という存在を知らなかった。ただの複製だから。
ここに来て、母親とはどういう存在かよく分かった。
母は、僕を抱きしめてくれる
母は、笑いかけてくれる
母は、僕への愛を口にする
聖女の如き慈悲深い存在だ。
もちろん母にもエゴはある。
母のあの優しさは、自分が息子と暮らしたいという思いにも起因しているのだから。
何より、僕自身が母のエゴから生まれた存在だ。
だがそのエゴすら一つの愛の形なのだ。
天野汐里という女性は、理想的な母と呼べるのだろう』
『理想的な母』――
その言葉に、胸の奥から熱い想いがこみ上げてきた。こらえきれない想いは、再び涙になって溢れ出た。
良かった。あの時、この子と、直哉とは違う親子になろうと決意したことは間違いではなかったのだ。
滲む視界の端に、ナオヤの綴った思いの続きが書かれていた。
『だが、彼女は僕を離さない
多くの『僕』たちから体を切り取り、僕に繋げる。
彼女は、そうして僕を生かそうとする
この体がどれほど痛み、病み、衰えようとも、決して死なせはしないのだ。
彼女が逝くまでは』
「……え?」
続く文字が、震えて読めなかった。私が見たくないと思っているからだろうか。
だけど残酷なことに、私の瞳はその次の言葉を読み進めてしまった。
『あのエゴこそ、彼女が直哉の母親であるという何よりの証だろう。
だとしたら、僕は彼女の息子ではないのだろう。
僕には彼女が悪魔に見えるからだ。
この地獄の苦しみを、いつまで続くかわからない彼女の生存期間中、ずっと耐え抜けと僕に強要する悪魔だ』
ガタンと大きな音がして、端末が床に滑り落ちたのだと気づいた。
画面を見ると、先ほどの文書はまだ開いていた。私は、そのデータを消去した。
あの子がどれほど苦労して書いたのかわからない。だけどもう二度と、目にしたくなかった。
ぽたぽたと、水滴が画面に幾つも零れる。私は、それを拭うこともせず、静かにサイドテーブルに置き、部屋を後にした。
戸を閉めた途端、室内から甲高いアラーム音が響いてきた。呼吸異常だ。最近は頻繁に起こっていた。このような場合はすぐにベッドサイドの端末から病院に連絡し、指示を仰ぐことになっている。
だけど、そうはしなかった。できなかった。
私は悲鳴のようなアラーム音を、どこかぼんやりと聞きながら、歩き去った。
頭の中にはアラームよりも、あの子の苦し気な呼吸よりも、あの子の最後の一言がくり返し浮かんでいた。
――彼女は直哉の、最高の母なのだろう。
では、僕のお母さんはどこにいるのだろう
最初のコメントを投稿しよう!