『胡坐』

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『胡坐』

『胡坐』  彼女にプロポーズをしたあの日から、あと三日で丸三年になる。  普段からクールだ無表情だ仕事人間だと評判されている職場では「記念日なんて気にもしなさそうなのに」と笑われたが、たしかに、私自身あまりイベント事には興味がなかった。年末年始に年越しそばを食べたり初詣に行ったりするが、毎年の恒例行事といえばそれくらいなもので、やれクリスマスだ、バレンタインだハロウィンだのと、世間が浮かれる出来事に自分から積極的に参加した記憶は無い。  そんな私が、妻にーー否、当時の恋人であった彼女にーープロポーズをしたのが、この甘い甘いチョコレートの香りがするイベント日だったことは、同僚や友人達をたいそう驚かせたようだった。  彼女とは、職場の同期として出会い十年が経った頃、何となく食事に行ったりデートをする間に交際することになって、一年が経とうという頃ーーそう、三十代男女にとって一般的に頃合いだろうという時期にーー結婚を申し込んだ。以来、我が家のイベント事に、年末年始と、チョコ会社の陰謀説うずまく甘い日が加わった。  そんな日から、あと三日で夫婦生活は丸三年。四年目を迎える。  当日に、妻はどんなチョコレートを準備してくれるのだろうか。今時分にしてはそれなりに給与が貰える我が社を寿退社してからというもの、妻は毎年私が全く聞いた事もない銘柄のチョコレートを買ってくる。  夫婦生活も丸一年が経ち、二年目に入る日の事だ。  一粒八百円のチョコレートが四つも入った横長で美しい包装の箱を、買って来いと指示され買って帰った赤ワインと一緒に開けた。私からすれば、一粒八百円の小さな菓子ごときに全く考えられない出費であることは確かであるが、妻は自宅で専業主婦をしながらも不妊に悩んでいる時期でもあったから、何の指摘もせず自由にさせておいた。  それ以来チョコレートの箱は増える一方で、翌年はたしか三箱か四箱か……覚えていない。とにかく、妻が行列に並んで準備したそれらを、私が買って帰るワインと共に食すのが、我々の恒例行事になっていた。妻は、数少ない我が家のイベントを楽しんでいるように見えた。 「あれから二年、か……」  そんなことをボーッと考えながら、自身のデスクに置いてある時計を見る。定時上がりが基本であるオフィスでは、もうほとんどが作業をストップさせ、パソコンの電源を落とすタイミングを待ちわびソワソワし始めている。  有り難いことに、この歳にしては良いポジションとそこそこの給与に恵まれている。そのため仕事も多く通常なら二時間程残業をして帰るところだが、今年の酒のチョイスについて妻の意見を聞いておかねば調達に時間がかかっても困るし、急ぎの仕事も無いし、と脳内で言い訳をして今日は定時に上がることにした。とにかく毎年この時期は、妻の機嫌をとらなければならない。子を成すことに積極的になれないまま妻と違うベッドで寝ている、私自身のわずかな抵抗であった。 「ただいま」  玄関を開けても返事が無いことは珍しい。リビングに入ると暖房はわずかについていて、ほんのり部屋はあたたまっているが妻の姿は見えない。  書斎に自分の鞄を置き、コートとジャケットをかけてリビングに戻ると、玄関からガチャリと音がする。 「あれ? あなた帰ってたの、おかえりなさい」 「そちらこそおかえり。今日は定時であがったから、どこにいるか、ちょうど電話しようとしていたところ」 「ごめんなさい、いつももう少し遅いから足りないものを買いに出てたの。すぐご飯あたためるから!」  私は玄関で、彼女の手に握られているレジ袋を自然に受け取った。彼女はコートを急いで脱ぎながら、それ私の部屋に入れておいてくれる? と言い残し、パタパタと食事の準備に行ってしまった。  滅多に入る事は無い彼女の私室ーーといっても彼女の趣味の手芸用部屋のようなものだがーーに足を踏み入れ、近くにあった机に袋たちを置いた。いつ見ても彼女の趣味はよく分からない、こんなチマチマした作業に集中することの何が楽しいのだろう。  そう溜め息をつき、ふと持ってきたレジ袋に目を落とす。彼女がよく布などを買っている手芸用品店の名前が書かれたビニール袋である。 「これ……?」  通常なら気付かないであろう文字が、見えてしまった。  ビニール袋の中には、布たちに隠されるように、高級腕時計メーカーの名前が入った紙袋が折り畳まれて押し込まれている。後ろめたい気持ちもあれど、好奇心が圧倒的に勝ってしまった。私は隠すように入っている箱をそっと手に取った。  この包装紙は、まさにそうだーー。  営業に出ることもある仕事上、腕時計は様々買ってきたため箱の形状に見覚えがある。腕時計は、箱が立方体、もしくはそれに近い直方体をしていることが多いのである。  シックな紺色の包装紙に朱色のリボンが斜めにかけてあって、目立つところにブランド名は無いが、裏返すとテープにメーカー名が書かれており、私が愛用している腕時計の商品であることは一目瞭然だった。 「あなたー? ご飯、できたわよー?」 「あぁ、ありがとう! 手を洗ってから行くよ!!」  驚いていることを悟られまいと無表情で声を張り、急いで箱を元の位置に戻し、洗面台で雑に手を洗うとワイシャツの袖をまくった。 「あら、着替えなくてよかったの?」 「あぁ、腹が減ってたから。いい匂いだ、先に食べるよ」  あらそう、と彼女は不思議そうな顔をしながら目の前の席につき、手を合わせた。  考えてみれば、男女の付き合いは三がつく日や年に変化があるなんて話もあるのだから、結婚して丸三年、四年目に入る年に少し違った過ごし方をしたいと思うものなのかもしれない。ロマンチストと呼ばれる人種とほとんど対極にいる私にとって、妻がそれを特別視してくれていることがこんなにも嬉しいこととは思わなかった。  夕食を早々に片付け風呂に入り、その日はすぐに眠ってしまった。  当日。私は百貨店のソムリエにお勧めされ、結局いつものワインの三倍はするであろう特別なシャンパンを購入し、帰路についていた。彼女は豪勢であたたかい夕食を作って待ってくれているに違いない。人生でこんなにウキウキする二月十四日があっただろうか、甘いもの好きでもない自分が。  自然と早足に、そして駆け足になる。  冷えたシャンパンの紙袋と駅前で買った花束が揺れている。  玄関前で息を整えてから鍵を開けた。 「おかえりなさい!」 「あぁ、ただいま」  すこぶる無表情につとめたつもりだったが、うまくいっただろうか。彼女は四年目にして初めて記念日に花束を買ってきたことを、とても喜んでくれた。  豪華なテーブルをふたりで囲み、頃合いをみて冷蔵庫で冷やしたシャンパンを出してくる。彼女は、そんな高そうなものどうしたの、と目を見開いていた。 「たまには、こういうのもいいかなと思って」 「そうなの。ありがとう」 「結婚丸三年、四年目だ。おめでとう。いつも感謝してる」 「嫌だわ、雪でも降るのかしら」  ふわりと笑った彼女のしなやかな黒髪から、シャンプーの香りがした。今日は風呂に浸かったのか、七分袖から出ている手首から手の甲にかけて、しっとりと水が肌に吸い付いているようだ。長い髪を耳にかける仕草を見て、久しぶりに今夜はふたり一緒のベッドで眠るのもいいかもしれないと思った。 「実は私からも、今年は特別な一箱を用意してるの」  彼女は乾杯したシャンパングラスを置き、自室に”何か”を取りに行った。  いつものポーカーフェイスを崩せば、彼女の荷物を漁った事がバレてしまうだろう。うまく初見のように反応することができるだろうか。高鳴る心臓をおさえ、平静を装った。 「はいこれ。毎年美味しいチョコレートを渡してきたけど、今年は特別」  あの日見た、紺色の包装紙に朱色のリボン。 「へぇ、なんだろう。開けてもいいかな」 「もちろん」  待ちきれないといった風を装う。楽しみだな、なんて呟いたのはわざとらしかっただろうか。  包装紙を乱雑に破くーー。 「美味しそうでしょう? フランスから、日本のバレンタインフェアに初出展なのよ! いつも記念日には奮発してるけど、今年は出血大サービスって感じでこれにしたの! 一粒いくらか計算したくないくらいの値段よ」  だから今年は一箱だけにしておいたわ、と彼女は微笑んだ。 「あなた? どうしたの? 嬉しくなかった?」 「あ、いや、違う、その……驚いて」  嘘ではなかった。 「見たことも……無い、ブランドだし」  事実だった。 「そうなのよ、それでね、このショコラティエはね……」  彼女の言葉が遠のいていく。いつもの無表情で相づちを打つ。浮かれていた気持ちが途端に冷えていくのを感じる。 「ねぇ、あなた、聞いてる? 食べてみましょうよ」  たしかに数日前に見たのだ。このチョコレートと同じ形状と包装のあの箱を……あの高級腕時計ブランドの箱は、一体誰の手に渡ったというのだろう。真っ白になっていく私の頭の中は、すっかりあの箱の行方しか思案できなくなっていた。 「あぁ、ごめん、聞いてるよ。食べよう。せっかくのバレンタインだもんな」  彼女が宝石のように美しいチョコレートを口に放り込んだ。 「とっても美味しいわよ。ねぇ、食べてみたら?」  彼女は落ちた黒髪をかきあげ耳にかけながら言った。次のチョコレートを選ぶように箱を覗き込む彼女の、大きく開いたシャツの襟首から、むき出しの乳房が見え隠れしていた。  背筋に冷たい何かが伝っている。一粒食べてみた。味はわからない。 「そういえば、あなた。その腕時計、デザインがシックでステキね」  私が食事をする前テーブル脇に置いた腕時計を見ながら、彼女がニコリと微笑む。彼女はこんなに腕時計に詳しかっただろうか。  唇の端についたチョコレートを細い薬指でぬぐい、それをゆっくりと舐めている彼女から、妙に艶やかな音がした。  私は、すっかり汗をかいて放置されたグラスに入ったシャンパンと一緒に、口内に残るチョコレートを無理矢理流し込んだ。キンキンに冷やしていたはずのその液体は、とっくにぬるくなってしまっていた。  秒針の音が、うるさいくらい脳内に響いていた。 <了> (万年筆文芸部2月のお題バレンタイン)
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