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『本当の母親を知った日。』
『本当の母親を知った日。』
私が彼女のことについて語れることは、そうそうありはしない。ただ、全く知らないと言うにはおこがましい程、ネタは上がっている。
死ぬまで自称画家だったこと、スペインの路上で絵を売りながらホームレスをしていたこと、身長が高く声が低い事でよく父親に間違えられたこと、普段からブラジャーを付けないほど男勝りな格好をしていたこと、冠婚葬祭は男性のジャケットを着ていたこと、文字通り死ぬ程活字中毒だったこと。
そのどれもが、私が彼女のことを知っているフリをするには十分な情報量を持っていたが、本当に私は、彼女の本質をとらえられていたのだろうかと今更ながらに想う。
母親ーー彼女が亡くなって半年が過ぎた。
四十九日法要が済み、老いた父への相続手続きを終え落ち着いてきた頃。ようやく、彼女の遺品を整理する時間が得られた。
ようやく、という表現が果たして正しいのかは分からない。時間ならば今までもあったのだが、彼女の魂の込められた油絵やその道具たちや、愛用していた手帳、愛読書を整理するのに、何かに気を取られながらの“片手間”では失礼なのではないかと、私はすっかり思い込んでいた。
その日は丸1日仕事を休み、普段自宅に居る父も老人ホームに預かってもらうことになっていた。
「ここだね。入ってもいい?」
「うん、よろしく。貴重な資料があれば教えて。母の本は、基本売却の予定ではあるんだけど、資料価値が有りそうなら寄贈も検討してて」
「そうなんだ、いいじゃん。好きな本あったら貰って帰ってもいい?」
「今日の手伝いのお礼にいくらでもどうぞ」
「やった」
軽口を叩き合いながら、私は今日の遺品整理の為に同じく休みを取得してくれた婚約者(といっても単純にお互いがそう思っているだけで親公認ではないが)に、ギャラ貰うつもりならちゃんと手伝えよ、と忠告した。
母親ーー彼女の書斎(というにはあまりにお粗末な倉庫のように天井が高く広い空間の真ん中にポツンと読書台が置かれているだけ)に足を踏み入れると、全ての壁は、後から作りつけたであろう書棚でビッシリと埋め尽くされている。本が焼けるのを嫌ったのか、小さな換気用の窓以外は真っ暗な部屋に薄暗い電気をつけて、部屋をひと回り歩いてみる。
「なぁ、お前の母ちゃん、ホントに本好きだったの?」
「そう思ってたけど」
「それにしたら、汚くしてるのなー」
婚約者の言う通り、埃っぽい部屋だ。そして、書棚はお世辞にも美しいとは呼べず、溢れた本は本の隙間にギュウギュウに詰め込まれ、更にそこの席からもあぶれた者たちは床に散り散りに置かれている。並び順もジャンルもバラバラだ。小説、ノンフィクション、エッセイに専門書……漫画や脚本、家電の説明書までが同じように並んでいる。彼女にとったら、活字であるということにおいて、何か特別な優劣や順番は存在しなかったのだろうと推察された。たしかに、そういう人だった。年の離れた夫にも平等に接していたし、私と長男である弟にも分け隔てなく接した。弟は我が家で初の男児だと親類にチヤホヤされることが多いだけに、彼女は私のことをとてもよく気くばってくれた。姉だからと気負うことはなく、何か不平等を感じればそれを発言するチャンスを毎回与えてくれた。それは私にとっては非常に有難い環境だったのかもしれないが、同時に、どこか母親である彼女のことを遠い存在まで押しのけてしまっていたような気もしていた。
「医学書も豊富だけど、医者だったりしたの?」
「いいや、彼女は画家だったと思うよ」
「彼女って。母親だろ」
「そうなんだけどね。なんだかまだ、ピンと来ないんだよ」
書棚に並ぶ本の背表紙に指を這わせながら、これらの活字をどう処分すべきなのだろうかと思案する。父も弟も、私ほど活字に興味が無いのでこの任務を仰せつかったわけなのだが、私もあいにく彼女ほどの活字中毒ではなかったし、ボロボロの築40年の母屋の床が抜ける前に、どうにか負担を軽くしてやる必要があった。
指先をボーッと見ながら歩き回っていると、見知った作家の本や、全く知らない作家の本が所狭しと詰め込まれているのを見て、そういえば彼女はそのような人だと思い出した。こんな人だろうと想像するには情報量は足りているはずなのに、それだけでは彼女の本質をとらえられていない気がしていた。
「この漫画面白そう、ちょっと休憩に読んでていい?」
「聞く前にもう読み始めてる癖に」
書棚の途中、本と棚板の間にギュッと詰められていた「日記」という手書きの背表紙文字を見て、ふと手を止めた。はじめはそういうタイトルのエッセイかとも思ったが、間違いなく彼女の筆跡だから、99%彼女の日記であろう。こんな分かりやすいところに何故、と感じると同時に、この書棚の遺品整理を任されるのはきっと私であろうことは彼女にとって予測がついていただろうから、わざとここに置いたのかもしれないとも想った。
読むべきだろうか。
読む、べきなのだろう。
ただ、故人が死ぬまで伝えようとしなかった事項を今更ながらに知ることに何か意味があるのだろうかとも想った。
それでも。
彼女が、「私」に宛てて置いていった可能性が捨てきれずにいる。彼女は、出版社で本を作る私に、読ませたい何かを書き留めているのかもしれない。
結局好奇心が勝ってしまい恐る恐るその日記を書棚から引っ張り出す。表紙の日付を見ると、彼女が高校在学中の年月日が書かれている。益々興味を引かれた。
「何、面白いもの見つけたの?見せてよ」
「これは……ちょっと」
「プライベートなもの?」
なら興味無いし大丈夫、と漫画読書に戻る婚約者の察しの良さは、大きな長所であると想う。
婚約者が天井までかけられた梯子に座り読書している傍ら、古びた読書台の天板を持ち上げ埃を払う。豆電球の読書灯を付けて、お手製の木椅子に腰掛ける。脈打つ心臓の鼓動が段々と大きくなり、妙にうるさい。表紙を捲る。そこには、達筆な筆記体で「Dear My Friend ,」と、彼女の高校から大親友である女性(葬儀に来てくれた際一度だけ会った)の名前が書かれていた。
もう、ダメだ。閉じるべきだ。
この日記の宛先は私ではない。
そう思っているのに、右手はパラリとページを捲るのを止められない。
【一月一日】
愛しい君と受験で離れ離れになるまで2ヶ月。それまでの短い間だが、日記を付けることにする。互いに近所に挨拶回り。初詣は一緒に行こうと電話をくれた。
【一月二日】
君と一緒に初詣。何を願うかは決めていた。
「君が幸せになれますように」
それの幸せの隣に私が居られないことは知っている。
一ページ目のこの二日間のテキストだけで限界だった。日記を勢いよく閉じて読書台に放ると、どっと疲れが増し、体重をかけた木椅子がギシリと嫌な音を立てた。
彼女はやはり、“そう”だった。だからこそ、私を弟と同じように平等に扱おうとしたのだ。きっと彼女には、私のことはバレていた。私の、いや、私と婚約者のことは。きっとわかっていたのだろう。
「これ面白かったよ、女子同士の妊娠レポート漫画。私たちもこんな選択肢をとることがいつがあるかもしれないから持って帰らない?」
婚約者の声にハッとして振り返る。幽霊を見たような顔してどうしたのと呆れられながらも、私は、本の持ち帰りは好きにしてくれと伝えた。
一度も婚約者のことを紹介したことは無かった。友人としても、だ。彼女ーー母親は常に私の隣に恋人が居ないことを気にかけてはくれていたが、彼氏は? などと性別を固定して圧力をかけてきたことがなかった……その理由がいま、明らかになった。
死ぬ前に、きっと聞きたかったのだろう。彼女ーー母親も話したかったのかもしれない。愛する人を諦め、平凡な男と結婚してどんな人生だったかと。愚痴のひとつでも言いたかったのかもしれない。私だってきっと、彼女が“そう”だと知っていれば、すぐに婚約者を紹介したことだろう。それでも、彼女は最後まで私に“そう”であることを問い詰めなかった。病床死の間際、私たち残された家族にありがとうと微笑んだ彼女の笑顔がボヤけていく。どんな表情をしていたっけ。どんな声で。分からない。
「ねぇ、ホントにどしたの? 大丈夫?」
「あぁ。ありがとう。大丈夫だよ。ちょっと本が多すぎるから、古書買取専門のかたを呼ぶことにしようかな」
「それがいいよ!」
そうと決まれば残り時間はデートしよう、と婚約者は私の手を引っ張ってくれる。そうして薄暗いあの倉庫のような書庫から連れ出してくれた。
結局私の手に余るあの日記を、古書店に引き渡すことになるのだろう。そう想像して自嘲する。あぁ、彼女ーー母親のことは、最後まで知らないことだらけだったな。
「ねぇ、式場決めたの見てくれた? 来週ドレス選び付き合ってね」
「あぁ、もちろん。今日のお詫びも兼ねて何着でも付き合うよ」
「やった」
幸せそうに満面の笑みを作る婚約者に手を救いとられ、そのまま手を繋ぎ、青空の下歩き出した。
私たちの真上からギラりと睨む太陽が、やけに目にしみた。
<了>
(万年筆文芸部今月のお題母の日)
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