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『涙。』
『涙。』
午前0時46分。湿気の強い、真夏の夜。
両親の怒鳴り声で目が覚めた。とても嫌な目覚めだ。
また、何かで揉めているのだろうか。
なんと言ってるかまでは聞き取れない。それでも、父の怒鳴り声がとても耳に響いた。
ふとした瞬間喉の渇きを憶え、俺は自室の隅に置いてある小型の冷蔵庫までのそのそと歩き、中を覗き込んだ。
中には、1.5リットルのミネラルウォーターと缶コーヒーが数本ずつ入っていた。
俺は缶コーヒーを一本取り上げ、冷蔵庫の扉を閉めた。
一度息を吐き、缶を開ける。
缶を傾けた瞬間、コーヒーが喉に流れ込んでくる。
控えめな甘さが、とても甘く感じた。
また、一段と大きな声が上がる。そしてその次に、母の悲鳴が聞こえてきた。
父はたぶん、今母を怒鳴りつけ、そして殴り、蹴り、突き飛ばしているのだろう。昼間の人の良さそうな彼とは180度違い、酒が入った今はもう治まるまで誰も止めることは出来ない。
小さく母の泣き声が聞こえたかと思うと、すぐに父の大きな怒鳴り声がした。
『――――っざけんじゃねぇよ!!』
怒鳴り声とともに、ドアが閉まる。大きくバタンッという音がして、家が静かになった。先程まで聞こえていた母の泣き声すら聞こえない。不気味な程静まりかえっていた。
車のエンジンが掛かる音が小さく耳を掠めた。
どうやら父は出て行くようだ。
俺は窓から父の車が道路へ出るのを確認してから、自室のドアを開けた。わずかにだが遠くに、母の泣き声がしている。
リビングだ。
俺は母の声が聞こえる方向に聞き耳を立て、場所の見当を付けた。
「母さん……?」
リビングに足を踏み入れる。ソファのすぐ近くで、ぐったりと横になっている母を見つけ、俺は駆けた。俺の読みは正しかった様だ。
「……雪ちゃん……?」
それは俺の小さい頃からのニックネームだった。母にも友達にも、そう呼ばれていた。
母は苦しそうに俺の名前を呼ぶと、重たそうな瞼をこじ開けた。
「大丈夫か?」
俺は母の肩に手を掛け、ゆっくりと起こした。
「大丈夫よ…今日は少し、ぶたれた程度だから……」
母はニコリと無理に笑い、ソファに寄りかかった。
「怪我は……」
母の体を上から下まで一通り見てから、俺はそう呟いた。
見る限り出血などの大きな怪我は無いようだが、体の中のことまでは分からないので、母に直接問うしかないのだ。
俺は床に膝をつき、母と目線を合わせた。
「大丈夫……痣が少し出来るかしら……」
母はまたフフッと笑った。
笑えない……。
母の笑顔を見ると、その度胸がズキズキと痛むようだった。
「一応、病院行っとくか? どっか痛めてたらまずいっしょ?」
「ううん。大丈夫よ、これくらいなら。いつものことだから…」
母はその後小さく「ありがとう」と言った。
俺は本当に大丈夫かと問いながら、もう一度母を見た。
顔が少し腫れている。
ぶたれた、と言っていたが、このことだろうか。
すごく、痛いんだろうな……。
俺は、そう思った。
『少しぶたれた』
母はそう言っていたけど、思えば"少し"で床に倒れ込んだりはしない。きっと、顔以外にもぶたれた箇所があるのだろう。
それでも俺に向かって、微笑んでいるのだ。
「……ベッドに行こう。寝た方がいい……」
俺は母の腕を肩に掛けて支え、もう片方の手で腰を支えてやった。
「そうね。あの人、今日はもう帰って来ないだろうし…」
母は悲しそうにそう言って、俺が促したとおり歩き出した。
「ふぅ……」
自室のドアを後ろ手に閉め、俺はその場に座り込んだ。
あれから、母の体で痣になりそうなところを徹底的に湿布で覆った。
触れるだけで「痛い」と悲鳴を上げる場所もあれば、触っても全然痛みもしない場所まで、何箇所も何箇所も…。
時間を沢山掛け丁寧に湿布を貼り終えてからも、母を寝かしつけるのに二時間以上掛かった。
今、何時だろうか……。
もう、日が昇る時刻に近いはずだ。
……眠れない。
さっきまで眠っていたのが嘘のように、眠気が吹き飛んでいた。
俺は少しの間、頭を抱え込み考える。
何故、母はあんな男が好きなのだろうか。
あんなに酷いことをされていながら、どうして毎日ニコニコと家事が出来るんだ?
何度問いかけても、答えが返ってくる筈がないのを分かっているのに、問うのを止められない。
ふとした瞬間喉の渇きを憶え、俺は自室の隅に置いてある小型の冷蔵庫までのそのそと歩き、中を覗き込んだ。
中には、1.5リットルのミネラルウォーターと缶コーヒーが数本ずつ入っていた。
俺は缶コーヒーを一本取り上げ、冷蔵庫の扉を閉めた。
その場で開けると一気に呷った。
ーーーーーー苦い。
さっきは甘く感じたコーヒーも、今はとても苦く感じた。
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