『犬猿の仲』

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『犬猿の仲』

『犬猿の仲』  彼は言った。 「よっ!! がんばってるか若者よ!!」  酷く花冷えのする日だった。   ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇  私は、『喫茶ピーマン』の常連のうちのひとりだ。そして例の発言者の男は同じく常連のうちのひとりである。いや、『常連だった』というべきかもしれない。彼は齢にして四十七。今年で四十八になる。  たしかに私は、彼よりは歳下であって、若者と形容されても仕方の無い年齢であるとは思う。この『喫茶ピーマン』に通い始めてからもう六年程になるが、はじめてこの店に訪れカウンターで珈琲を飲んだのは十八、田舎から学業のために上京してきた頃のことだ。それから大学を卒業、就職し、三年目を迎える今年もいまだに通い続けている。  カウンターに通う常連は殆どが四十~七十代と私より遥かに高齢で、私は常に常連の平均年齢を下げ続けている。それは新しいカウンター常連が増えていないということに等しいのであるが、それはそれとして、この喫茶ピーマン、町での評判は上々なようだ。最寄り駅から五分以上歩く場所柄にも関わらず、ポツリポツリと新規顧客は入り続けているように見える。高齢化は進んでいるが常連も沢山いる。そのため、私がいつも「お店の売上げ大丈夫なの?」と訊いても、今年七十三歳になるマスターは、全くと言っていい程、常連の新陳代謝なんてことには興味がないようだった。 「やっぱり来ませんね、金澤さん」  私がカウンターに座って二杯目の珈琲をゆっくりと味わいながら呟くと、マスターが「意外と遠くに行ってしまったからねぇ」とグラスを拭きながら応えた。  切り揃えた綺麗な白髪を撫で付け、白シャツに濃いグレーのベスト、そして蝶ネクタイ。いかにも『ザ・カフェ』然とした出で立ちのマスターは、ここに店を構えてもう二十年になるという。金澤さんは、そんな『喫茶ピーマン』に通って十六年目にして、三県隣の大きな都市に引っ越してしまった常連さんである。    ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆  金澤さんと私の出会いは六年前まで遡る。そう、あの田舎から出て来て右も左も分からない中、引っ越してきたアパート近くを散策していたときだった。  よくある電飾看板が目に入った。  黒地に白抜きで『COFFEE』と書かれた帯の下、ベージュ色の淡く光る部分にピーマンのかわいらしくポップなイラストが大きく描かれている。 「喫茶ピーマン……珍しい名前。今日の日替わりランチは生姜焼きとナポリタン、か……珈琲三五〇円? 安いなぁ。昔ながらの純喫茶って感じ……?」  入り口の重厚感のある木製扉は上部がアーチになっており、六つ磨りガラスがはめてある。その隣には、同じくアーチ状に切り取られた大きな窓があった。そこから中をチラリと覗くと、カウンターで何人かの中高年男性が談笑しているのが見えた。テーブル席がいくつかあるようだが、満席に見える。 「レトロでステキだけど……敷居が高いか」  ウロウロと遠巻きに中を覗いていると、重厚な木製扉が開いた。上部に取り付けられ少し錆びのついた小さなベルがチリンチリンと音を立てた。 「お嬢さん!! こっち、よかったら!! カウンター席あいてますよ!!」  さあどうぞ、と顔をのぞかせ私を店内に促した、その彼がまさに金澤さんだった。    ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 「あれから、もう六年になるんですね」  私は文庫本から顔を上げた。店との出逢いを思い出していたら物語に集中できなかったのだ。本をカウンターに伏せ顔を上げると、マスターは笑顔で「そうだねぇ、貴女も綺麗な大人の女性になったもんねぇ」と言った。  私はそうして褒められるとお世辞でも嬉しくて、御礼を伝えてからマスターに訊いた。 「やっぱり遠いの?」 「そうみたいだね、詳しくはあまり訊いていないけれど」 「下らない話ばかりしていたのに肝心なこと、言わない人だったもんね。マスターは細かい事情、知ってるの?」 「お母様の介護が大変で施設の空きが出たから、だったかな。突然だったもんね、本当に。よく訊けなかったよ」  そうか、さよなら言えなかったなぁ、と私がしみじみしていると、そんな様子にマスターは苦笑いをするばかりだ。  それはそうだ。私と金澤さんは、三十人程いるカウンター常連の中でも犬猿の仲だと有名だった。 「そんな顔しないで、マスター。だって彼、本当にお酒にだらしないんだもん。オマケに長年不動産営業の癖に、プライベートで会う男・女友達ひとりも居ないってそりゃないでしょ。まぁ、あんな感じで『女は奢れば口説ける』みたいに想ってる限り、彼女のひとりもできないよ。口ばっかりで」 「相変わらず手厳しいなぁ」 「だってそうでしょう。このお店に引き入れてくれたのは感謝するけど。でも、あの日も結局朝から飲んでて勢いで声かけたみたいだし。酔ってると声大きくなるし。他のお客さんビックリするでしょう」  ここは呑み屋じゃないんだから、と私が呟けば、マスターはニコリと「貴女の言うことは正しいよ」といった風に頷いてくれた。いつしか、酔った彼が珈琲を飲みにくるとき私とカウンターで出逢うと小言を言ってしまうため、常連の中では『犬猿の仲』と言われてしまうようになったのである。  そんな彼がいなくなって、初めての春がきた。私がピーマンに通い始めたのが六年前の春だから、七回目になる。    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 「そういえば、三月の末日、近くの公園で常連お花見会をやるから来ない?」  ちょうど私がピーマンに通って一年が経つ頃、金澤さんにそう声を掛けられた。その頃はまだ「陽気なオジさん」と想っていた金澤さんに二つ返事で 「楽しそうですね! ぜひうかがいます」  と答えた。私は田舎から出て来てはじめての常連店で、プライベートな会に呼ばれたことにすっかり浮かれきっていた。  お花見当日。結局連絡が取れ都合がついた七人が参加することになった。五十七歳同士夫婦が一組、独身六十代男性二人と、金澤さん、そして私、マスター、合計七人。みんな私に対して何も持たずに来ていいと言ってくれたがそうもいかず、幹事の金澤さんに連絡すると「会費制でやるから」と結果何も無しでと言われてしまった。仕方が無いので申し訳程度につまみを作ってタッパーに入れ持参すると、朝十一時だというのに呑気にひとり酔っぱらっている金澤さんを見つけて絶句した。 「え、ベロベロじゃないですか! 大丈夫ですか、金澤さん?!」  私がピーマンの常連が集まるブルーシートに到着してすぐにそう突っ込みを入れると、皆は笑いながら、 「嬢ちゃんは見るの初めてか!」「ピーマン名物だぞ」「金澤さんいつもこんなモンだよー」「えぇそうよ、心配しないでいいわよ、お嬢さん」  などと口々にフォローを入れた。 「そうなんですね……何も持たずにってのもアレなので、これ、少しですがおつまみ作ってきました」 「わぁ、ありがとう、お料理できるのね。学生さんなのに偉いわ、一人暮らしなの?」  夫婦組の奥様が、そう私に声を掛けてくれ、私は金澤さんと奥様の隙間に座った。  奥様はふわりとパーマがかったショートヘアーの白髪に、清潔なお化粧と大振り真珠のイヤリング、ざっくりとした白シャツの襟から覗く白い肌に似合うシルバーのネックレス、そして細身のジーパン。その若々しい出で立ちに、年齢を訊いていなければ、四十代前半に見てしまうところだ。彼女からは、上品な香水がふわりと香った。 「というか……なんで金澤さんだけキャンプ用の椅子用意してるんですか? 普通、コチラの奥様に譲りません?」  酒が苦手な私のために用意されたオレンジジュースで乾杯してから、再び私が突っ込みを入れると「潔癖なんだって」とマスターが笑う。 「え?! そうなんですか?! カウンターであんなに叫んで飲んだくれてるのに?!」 「いや、あれはウチで飲んでるわけではないからね、一応言っておくけど」 「いや、でも……酔ってよく常連さんにキス強請ってるから……もしかしてゲイのかたなんですか?」 「いいや、よくキャバクラに行ってるし、彼は正真正銘、むしろ無類の女好きだね」  マスターは缶ビールを片手にハハハと笑う。家から公園までの道のりでピーマンの前を通ったが、『花見のため臨時休業致します 店主』という張り紙があったから、マスターも今日はゆっくりと飲めるのだろう。 「ゲイでも無いけど、潔癖で……あんなペロペロ男性の顔舐めるの……? 意味不明ですね、金澤さん……」 「ウフフ、こういう酔っぱらいは、今時の学生さんには少し刺激が強いかしらね」  お店のこと嫌いにならないでね、と奥様は言った。まさに店に通い続けるかを悩むレベルの現象だったので、彼女の指摘は的確だった。  まぁ別に良いのだ。金澤さんが好きで店に通っているのではない。そうだ、私はマスターの優しい笑顔や美味しい珈琲、ランチやケーキ、奥様や殆どのかたのように優しい常連さん……レトロで憧れの純喫茶の常連の仲間入りができて嬉しかったから通っているのである。そう自分に言い聞かせる。  オレンジジュースを傾けながら、瞼を閉じて船を漕いでいる金澤さんが座るアウトドアチェアの手摺りのカップケースを見る。そこには中身がほぼ入っていないワイングラスが置かれていた。 「えっ?! コンビニの赤ワインボトルです?! グラスも百均でよくあるプラのですよね?!」 「あはは、金澤さん好きなんだよねぇ。いつもこれだよ。彼しか飲まないんだけどね。彼はこのボトル一本と、コンビニ総菜のホットスナック、最近は唐揚げ六個入しか買ってこないかな」  マスターの言葉に、私はまたしても驚きの声を上げた。てっきり幹事だから、色々な準備をしてくれているのかと想っていたのだが。 「じゃあ、これ……食べ物とか飲み物は……」 「ほとんど僕が作ったり買ってきたものだよ」 「逆に金澤さん、幹事として何やってるんですか……?」  そう問うと、その場の皆がうーんと迷い、そのうちのひとりでダンディなハットを被るオシャレ六十代男性が、 「アイツは金の調達係かな!!」  と、ガハハと笑った。 「幹事っていっても、金澤さん、何もやってないんですね……驚きました」  訊けば、もうこんな花見を開店当初から毎年やっているらしく、他にもバーベキューや登山などのアウトドア・イベントの殆どは金澤さん発案で幹事もしているらしい。それでも毎回のイベントで、金澤さんは口だけ出して何もせず、一番に酔っぱらうようだ。 「おぉ!! いつ来たんだ若者よ!!」  私が訝しげに金澤さんを見ていると、それに気付いたんだか気付いていないんだか、突然彼が立ち上がった。 「いや、もう来て一時間は経っておりまして……」 「よっ!! がんばってるか若者よ!!」 「こ、声が大きいです……とりあえず座ってください」  私がそう促しても、口元に両手を添え、大声で「がんばれー!!」と叫ぶ酔っぱらいをどうすることもできなかった。 「金澤さんこそ、もう少しがんばってくださいよ……」  というか煩いです、と呆れる私に常連さんたちは、ワハハと笑った。    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 「どうしたの、良い事でもあった?」  マスターに声をかけられ現実へと引き戻される。 「いえ、初回のお花見のことを想い出していたんです」 「あぁ、あのとき。貴女だいぶ面食らっていたね」 「はい、驚きました。そういう人だと想っていなかったもので」  その後も花見やバーベキューには毎年キッチリ参加したが、皆さんの宣言通り彼は飲んだくれているだけのように見えた。  そうして、今年の春を迎える前に金澤さんは遠くの地へと旅立った。彼が引っ越してから、母親が認知症で介護が大変だと愚痴っていたらしいことを知った。 「知っているようで、あまり知らなかったんですよね、私。金澤さんのこと」  小さく溜め息を吐くと、マスターは心底意外そうに目を丸くした。 「貴女、彼が嫌いだったんじゃ……?」 「まぁ、好きか嫌いかで言ったら……ああいう大人は好きではないけど……」  あんな風にはなりたくないというか……。そう付け加えると、マスターは、では何故そんなに気にかけているのかと不思議そうにしている。  たった数ヶ月会わなくなっただけなのに、人間の記憶というのは曖昧なものだ。六年間、二日に一度は顔を合わせていた彼の顔を想い出そうとしても、彼の輪郭がぼやけてハッキリ想い出すことも出来ない。 「あんな風にはなりたくない、か……でも、貴女の知らない金澤さんの事情も、あったんだろうね。肌が違えれば人間なんて所詮赤の他人で、全ては分かりっこないよ」  そんなもんだよ、あまり気に病む事はないさ、とマスターは言うけれど。  彼がもし毎日のようにこの店に珈琲を飲みにきたり、常連さんとの時間を介護の息抜きに使っていたとしたらと想うと……少し複雑な気もする。 「今年はお花見、やらないんですか?」 「どうだろうね。常連さんからは、何も話が出てないからね」 「もうすぐ、桜、散っちゃいますよ」 「そうだねぇ」  タイミング悪くチリンチリンと音が鳴り来客を告げたので、マスターとの話は途中で終わってしまった。   『金澤さんは、いつも何もやっていないのに口だけ出して、飲んだくれるだけ』と、私は彼のいないところで常連さんに愚痴ったことがあった。だが、今はどうだろう。彼がいなくなって半年も経っていないのに、常連たちが行っていた登山も温泉旅行も、お花見さえも無くなってしまった。常連さんとカウンターで会えば「金澤」という単語が飛び交い、彼の安否を気遣う言葉ばかり訊く。その現象を目の前に、私は『金澤さんは何もやっていなかった』と愚痴ることなど、到底できそうもなかった。彼の不貞行為の数々に文句を言えど、金澤さんがピーマンで大きな役割を担っていた事は事実だったことが分かってしまった。 「悪い事、しちゃったのかな……私」  日々、輪郭がぼやけていく彼の姿を想い出しながら、そういえばたしか去年の三月に撮った写真があったかも、とスマホをいじりはじめたとき。マスターの笑い声に振り返った。 「今ちょうど、彼女と話をしていた所です」  マスターの言葉に目を見張る。手に持つ珈琲カップを落とさなかったことを褒めて欲しいくらいだ。  相変わらず昼間にへべれけになっている彼の顔を見て、あぁこんな風貌だったなと想った。数ヶ月会わないだけだったのに、酷く懐かしい気がしてしまうのはきっと気のせいだろう。 「よっ!! がんばってるか若者よ!!」  その日は酷く花冷えのする日だったが、なんだか胸の奥にじんわりと広がる何かを感じる。 「いや、だから煩いってば……」  私の突っ込みにマスターはふふふと笑い、やっぱり犬猿の仲ですね、と呟いた。 <了> (万年筆文芸部今月のお題お花見)
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