この声が届くまで(6)

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この声が届くまで(6)

「なんかお父さんが食べてるの見てたらまたお腹減ってきたな。わたしもなんか食べよっかな」 「さっきお昼食べたところだろ? まだ食べるのか」  大きく膨れたお腹を支えながら、「よっ」と声に出して立ち上がる。 「今から食べるのはわたしの分じゃなくて、もうひとりの分ね。大丈夫、ちゃんと気をつけて食べるから。 「ついでにお茶淹れるけどお父さんもいるでしょ?」  冷蔵庫の扉を開けて何か食べたいものがないか見まわした。最近わたしはあれこれ手をつけては食べきらずに置いておくので、どれも中途半端に残ったまま寂し気に放置されている。 「んんん……。先にお茶でも淹れるか」  扉を閉めて、さきほど父が開けていた戸棚へ向かった。 「ねえ、お父さん。わたし、しっかりお母さんできるかな」 「あたりまえだろ。父さんに似ていないんだからな」  わたしはくすりと笑いとばして戸棚に手を伸ばした時だった。  あきらかな違和感があった。そして直感的に間違いないと感じた。 「お父さん! 携帯! 携帯とって!」 「どうした那乃羽? 何かあったか?」 「破水! たぶんわたし破水した!」  時間の感覚はなかった。入院が決まってからどれくらい時間が経ったのか、今が一体何時なのか。間隔の狭まる激しい陣痛に顔を歪めながら、その瞬間が訪れるのを必死に耐え続けていた。  そして気が付けば、わたしは分娩室の天井を見上げていた。激しい痛みと、自分のものではないような声が喉の奥を破るように吐き出される。今にもちぎれそうな意識の中で「がんばって!」、と輪郭のない助産師の声が聞こえてくる。手すりを握る手はすでに限界をこえていた。けれどもう、そこに恐怖や不安はなかった。早く声が聞きたい。早く声を聞かせてほしい。ただそれだけを願った。  あの時母も、きっとおなじように思っていたに違いない。  わたしの声は母に届いたのだろうか。  ごめんねお母さん。  わたしは産まれてくることを拒んで、とてもわがままな子だと思ったでしょう。  わたしは母のぬくもりの中で、ずっと眠っていたかった。離れてしまえばもう二度と会えなくなることを、わたしは知っていたから。だからせいいっぱいのわがままを許してほしい。母の胎内から外の世界に飛び出して。はじめて全身にふれる空気と人の手のぬくもり。はじめて瞼をさす膨大な光に戸惑いながら、わたしは母の姿を捉えようとした。眩しくて目の開き方さえまだ知らない中で、わたしは母の声を聞こうと耳を澄ました。ただそれだけに意識を集中させていた。周囲では慌ただしい人の声や初めて聞くたくさんの音がする。わたしは苦しくて苦しくて、ぼんやりと薄れそうな意識を母の声を聞くために必死に保っていた。わたしを支える大きな手のそばから誰かの声がする。その声はわたしに向けられていた。「この子呼吸をしない」ちがう。母の声ではない。戻りたい、母の中へ。戻って母のぬくもりにふれたまま、ずっと寄り添って眠っていたい。わたしをいるべき場所に返してほしい。  薄れゆく意識の中で、わたしがそう願った時。突然空気を揺らすほどの大きな声が響いた。 「お願い那乃羽! 生きて!」  母の声だった。母がわたしの名前を呼んでいる。  ここにいる。  ここにいるよ。  母に伝えたい。  わたしの声を、母に届けなければならない。  言葉なんか何ひとつ知らない。  だけれど、最後に母に聞かせたい。  ただ声をあげて、盛大に声を響かせてわたしの存在を知らせればいいのだ。  わたしはしっかりとここに生きていると――。 「那乃羽ちゃんもう赤ちゃん出てくるからね! がんばって!」  わたしは言葉にならない声をあげながら、力を込めた。  そして次の瞬間、血の気が引くように全身の筋肉が一気に緩んだ。 「おめでとうございます」  分娩室の天井を見つめたまま、わたしはその言葉で我に返った。  そして抑えきれない涙がぼろぼろとあふれ出してくる。  聞こえる。  聞こえてくる。  分娩室に響き渡る声で、はじめて感じる外の世界で。  まだ何ひとつ言葉なんて知らないだろうけれど、わたしを探している力強い声がする。  わたしは応えなければならない。  あなたの声はちゃんとわたしに届いている。  わたしはここにいるよ。  すぐそばにいるよ。  お母さんはここにいる。  きっとあの時も。  わたしの声は、届いていたはずなのだと思う──。
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