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――いつかまたこの島に来ることがあれば、今日の豪華な晩ご飯について、あの漁師にお礼をしなければ。
ビル少年の夏
*****
「にゃあ」と野良猫が飽きれたように鳴き声をあげた。そんな猫を見ていると、つられて、僕まで大きな欠伸が出た。涙がたまった目元を拭いながら、僕は投げてから2時間一向に沈まない浮きをぼんやり眺めた。
ことの発端は、お師匠――ウィルが『いい天気だから釣りにでも行こうか』と言い始めたことだ。彼は今まで近くの湖や池、いわゆる泉みたいな所で釣りを楽しんでいたのに、今日は特別に法域外――「外」の離島まで出て、太平洋の海で釣りを楽しみたいと言った。釣りの準備をしながら、そういえば、人間の住む世界に行くのは、ウィルに孤児院から引き取られた時以来だから、実に10年振りになる。
2歳で彼に引き取られてからもう10年近くが経つらしい。人間でいえば12歳の姿になろうという僕自身、引き取られてから一度も法域の「外」に出たことがなかった。物心ついた頃から、ウィルは僕に家の回りの森や泉の薬草を摘んで煎じたり、隣人と呼ばれる小さな妖精と仲良くなる方法を沢山教えてくれた。
「釣れないね」
そうぼやくと、簡易的な折りたたみ椅子に座った彼が「釣りは忍耐。見える魚は釣れないと申しますが……」とニホンというクニの落語を披露しはじめた。そんな声をラジオのように聞き流しながら、餌をつけては釣り糸を垂らし、無くなればまたつける。そうして2時間、僕はすっかり釣りに飽きてしまっていた。
「ねえお師匠さま」
「外ではウィルと呼ぶ約束だろ、ビル。ここは法域外、普通の人たちが生活しているんだから不自然に聞こえる」
「僕と同じ名前なんだもん」
ウィルは今でも酒が入るとすぐに、当時自分と同じ名前だった僕が気に入ったから引き取ったと冗談めかして言う。だが結局同じウィリアムだと同じウィルという呼び名になり、便宜上これを変える必要があって、僕のことを『ビル』というあだ名で呼んでいる。
「そのうち慣れるさ」
「ウィル。どうしていつも泉で使うように魔法を使わないの? 全く釣れなくてつまらないよ」
「使ってはいけない決まりなんだ。それに外で魔法を使って釣ると、何故か美味しいお魚が釣れないんだ」
「ふぅん」
相変わらず、浮きは波に揺られてプカプカとダンスしている。魚がかかる様子はない。
いよいよ野良猫もウミネコも、僕たちの釣りに飽きてきたようだ。はじめはかまって欲しそうに僕たちの周りをウロチョロしていた猫たちは散り散りになり、ウミネコは1羽も僕たちの上を飛びまわっていない。
太陽は夏の暑さでジリジリと白い肌を焼いていく。だから言ったんだ、日焼け止めは薬を塗るだけでなく魔法を使うべきだって。明日になったら真っ赤になって痛み、そのうち肌がむけるに違いない。
「あついねぇ……熱中症にはならないように、肌はよく冷やしてね」
彼は40℃近い気温でも、とても涼しそうにしている。肌に25℃~30℃の透明な皮膜を張る魔法は、唯一今日許可された技だ。ただ僕は、普段これを使っていないため使い慣れず、今日即興で習ったけれどほぼ効力が無かった。その上、いつも使っている日焼け止めの魔法は禁止ときて、踏んだり蹴ったり。理由も理由で「日焼け止めは外ではクリーム状の薬液なんだよ」だそうだ。それでいて、熱中症対策のために皮膜は張れというのだから、やれやれ、彼の考えていることは全く理解できない。
「お師匠さま」
「ウィル、ね」
「……ウィル。ねぇ、怒らずに聞いてくれる?」
「なんだい、ビル」
「……釣り、つまらない」
彼のほうを見ることもなく、浮きを見つめながらそうつぶやくと、彼が大きく目を見開く気配がした。
「そうか、やっぱりつまらない?」
彼は顎に生えた無精髭を、ぽりぽりと右手で掻いた。利き手である左手は、釣り竿をゆすっていて、魚がかからないか、今か今かと待っている。
「泉みたいに魚が釣れないんだもん。やっぱりって……怒らないの」
「いいや、別に? 泉では楽しそうにしていたから、少し残念だけどね」
「なんだ、怒らないのか」
「怒って欲しかったの」
「いや、そういうんじゃないんだけど……」
「なんだいビル」
おかしな子だ、とふふふと微笑む横顔は、やけに楽しそうだ。つまらないって言ったのに、どうしてそんなに面白がれるのだろう。彼の十分の一も生きていない僕には、まだまだ理解できないことばかりだ。
「ビルは少し、日陰で休憩してきたらどう。俺はもうちょっとだけ……せめて1匹釣れるまでやりたいな」
「やめていいの」
「そりゃ。だって君、つまらないんだろ」
「うん」
「なら仕方ない。さっき八百屋で買ってきたスイカでも食べるといいよ」
そう言われ、僕はクーラーボックス(これも外側は法域外の見た目だが、中身だけは魔法でキンキンに冷やしてある)に入ったスイカと果物ナイフを手に、堤防の端にできた日陰まで6メートルほど移動した。
日向はコンクリートがとても熱くなっている。日陰側の温度をしゃがんでたしかめると、触れた限りはかろうじて座れそうだ。スイカを置き、ゆっくりと手を切らぬようナイフを入れた。本当なら、ナイフなんか使わず指先で切れるのに、法域外は面倒なことが多い。
スイカが切れると、にゃあと黒猫が一匹寄って来た。その野良猫にホラ、と小さなスイカの欠片を投げると、クンクンと匂いをかいでいる。その様子はとても愛らしく、自宅で飼っている猫のニックを思い出した。今日は魚を釣って帰ってやりたかったが、このまま成果がなければ玄関で何をしにわざわざ外まで出かけたのか、とガミガミ言われることだろう。煩わしいことだ。
「あぁ、また取られた!」
相変わらず、楽しそうにしているウィルの背中を眺める。餌を取られた釣り糸に、新しい餌をつけている。生臭い匂いが指につくのもお構いなしで、釣り糸に付ける時に細かくなってしまった餌の小魚は、近くに来た鳥や猫に投げて与えている。
口にくわえた煙草はモクモクと煙をあげ、ただし灰が落ちる事はない。見た目は法域外仕様の普通の紙煙草だが、中身は薬草で出来ていて曰く「健康になる」そうだ。
「あの見た目で、本当何が健康だよな……もう少し魔法使いらしく、かっこよくしてほしいよ……」
僕は常々他の魔法使いのお師匠さまのように、スラッとしたカッコよくてダンディな姿になってくれとお願いをしてきた。ここ3年くらいは毎日のように指摘しているが、Tシャツ短パン、ビーサンなのはいただけない。法域内では名の通った有名魔法使いのくせに、まるで威厳が感じられない。
その上、切り揃えない短髪と、髭だって気分で剃ったり剃らなかったりで結局いつも無精髭。汚いホームレスみたいだ。(いや、風呂には一応毎日入れているが)
他の有名魔法使いの、いわゆる「ローブを羽織り、長い長老風の格式高い白髭、三角魔法帽」にはまるで遠い。おまけに最近でっぱってきたお腹はビール腹。酒を辞めろといっても辞めないし、痛風の気もあるし……こんなんで、何が魔法使い、何が健康煙草だ。
「でも、尊敬されてるんだよな……あんなにアホっぽいのに、なんでだろ」
法域内では、彼を知らぬ者はモグリと言われるほど名の通った名士なのだとか。まだ僕はそれを半分くらい信じていないが、最近では多くの有名な(教科書で名前を見た事がある程有名な)魔法使いがチラホラ訪ねてくる。彼らに「ウィルの弟子だなんて光栄なことだね」と頭を撫でられるごとに、少しずつ「ウィルは本当に名士なのかもしれない」と信じはじめている。
「おーーい、ビル。ビール!! やっぱり釣れないから、帰りの支度を……」
彼は振り返りながら、大きく手を振って叫んだ。ハァーイ! と叫び返そうとすると
「う、うわぁっ!!!!!」
と再び大きな声がした。
「どうしたの?!」
すぐさま食べかけのスイカを捨てて駆けつけると、釣り竿がしなりウィルがリールを一生懸命まいている。
「釣れたみたい!」
「大きいね、気をつけて!」
「ビル、網! 網! 重くて上げきれないよ!」
「えぇ、網なんて持ってきてな……」
タモがねぇのけ、ほれ貸しちゃる、と隣で釣りをしていた、太ったタンクトップのおじいさんが大きな網を差し出した。ウィルの釣り竿の先をすくって、無事に獲物を海から上げることに成功すると、ゆっくりとコンクリートの上に下ろしてもらう。
「これは……フグ?」
「フグだろうね。うわっ! 膨らんだ! かわいい」
「ビル、これ見た事ある?」
「……うーん、魚は好きだけど、図鑑でも見た事無いね」
隣の網を貸してくれたおじいさん漁師に聞くと、ウィルが釣ったのは今まで見た事がないフグらしい。
「あいやい、深海のフグメでも迷い込んで来たかのぉ、兄ちゃんそりゃ喰えないから逃がしてやりな」
フグメ? と、二人して首を傾げると、漁師のおじいさんは
「ここいらではの、動物には『メ』ってのを着けるんだ。鶏メ、猫メ……」
と方言の解説をしてくれた。それにウィルが答える。
「そうなんですか」
「そうよ。オメェらはここいらのモンじゃなっきゃね。観光け?」
「あ。そうです、僕とウィルはこの島から離れた森に住んでて……」
「クニから来たのけ?」
「いや、都会では」
「チゲェよ、ここいらじゃ、クニってのは『本土』のことよ」
ああ成る程、と二人で納得し、大陸から来たのはたしかなので、ウィルがそうですクニから来ましたと答えると、漁師はニッコリと笑った。
「喰える魚は何も釣れてないのけ?」
「あ、はい、面目ない……」
ぽりぽりと頭をかくウィル。僕は、またニックに笑われるぞ、と脇腹をつついた。
漁師はそんな僕たちを見て微笑むと、コッチにおいでと僕に手招きした。ウィルは毒があるかもしれないから、と、かわいらしく膨らんだフグを針から外し海にリリースしている。
「何ですか?」
「ほれ、これ、持ってけぇれ」
漁師の大きなクーラーボックスには、氷がびっしりと詰められ、その中に魚が3匹刺さっている。ムロアジとカンパチ。どちらも刺身にフライに絶品の魚だ。
「え?! いいんですか?!」
「んだ。わぃら漁師は、毎日船で食べとるからな。魚は好きけ?」
「大っっっ好きですっ!!!」
ワーイと大げさに喜び、漁師の気が変わらないうちに急いで自分たちのクーラーボックスに魚を移し替えた。魚が腐らないよう少しだけ氷も移してくれた。その漁師の好意が嬉しすぎて、魔法で腐らないからいらない、とは僕は口が裂けても言えなかった。
「ウィル! 隣のおじいさんが!」
「あら。貰ったの。ビル、釣りしてないのに釣れたんだねぇ」
ありがとうございます、と笑ってお辞儀をするウィルに、漁師も嬉しそうに手をふった。お礼にと、あまったスイカをプレゼントすると、こんなに甘くて美味しい冷えたスイカは久々だと喜んでくれた。
「魚も釣れた事だし、ビル、帰ろう。暗くなっちゃう」
「釣れてない、貰ったんだ」
「面白いから釣れた事にしておこう」
「もぅ……」
バレてニックに怒られても知らないぞ。アイツは嘘つきが一番嫌いなんだから。
荷物をまとめて帰り際、漁師に会釈をすると観光楽しみな、と笑顔で手を振ってくれた。
「ね。法域外の自然も、いいでしょ」
と、ウィルが言った。
「そうだね。たまには」
「あ。ビル。鼻と首の所、真っ赤だ」
「うん、痛いもん。帰ったら薬草取りに出ないと……日没までに間に合うかな」
「本当この系統魔法、ヘタクソなんだからビルは」
「ウィルの釣りほどじゃないよ」
互いに悪態をつきながらも、なんだか心に夏の暑さだけではない、あたたかいものが込み上げた。いつかまたこの島に来ることがあれば、今日の豪華な晩ご飯について、あの漁師にお礼をしなければ。
「ほら、ビル。夕日」
見ると、太平洋に大きなオレンジ色の太陽が沈むところだった。
「きれいだね」
「ビル、泣いてるの」
「んなわけねぇじゃん」
アハハ、と笑う彼の横顔に、なんだかホッとする。
ふと足元を見ると、ウィルの半ズボンの下、ふくらはぎが焼けて足の甲にはビーサン焼けがクッキリと見えた。それを見て、お前だってヘタクソじゃんかと言うはずが、結局帰宅するまでそれを指摘することはできなかった。
――案の定。隠していたうちはニックにほめられたが、貰ったものだとバレた途端凄い勢いで釣り下手だと猫語でバカにされ、少し凹んだウィルの話は、またいつの日か。
END.
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