胎内に戻りて

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 私は確かに子宮という湯船に浸かっていた。  生まれた時も裸だったはずだ。その時の記憶はないとしても、温水に包まれる感触に身を委ねれば、確かに自分は母の腹にいたのだと思い返される。  擬似的に体感したければ、電気を消せばいい。  胎水のチャプチャプ波打つ音と、こうこうとした換気扇の濁音、パタリ・パタリとあかすりからリズミカルにしたる水音は、まるで心臓の鼓動。  塩素の溶け込んだ湯を掬って鼻をうんと近づければ、つんとした独特の香りが鼻の奥に響く。それは辛いように感じて、苦味もあって、甘さも感じる。  羊水の匂いは思い出せないが、きっと新鮮な内蔵のように、優しい香りがするのだろう。  哺乳類に刻まれた胎生の証から、母と繋がっていた。私は母の内蔵であり、へその緒を切られた瞬間に分裂した、独立の器官なのだ。  暗闇の中、私はじっと目を閉じて、また開いた。そっと手に持った剃刀を、手首に乗せた。  親不孝ものだとわかっていても、今は私の存在そのものが親不孝である。受験に失敗し、浪人し続けながらバイトで心を病み、前を向くことなく引きこもり続ける大きな子供。  母は悪くない。悪いのは私だ。生まれた私が悪いのだ。母の体内に宿ってしまった私が、悪いのだ。  私は健康な子になれなかった。小児喘息で度々心配をかけて、卵アレルギーで気を使わせた。  私はいい子供になれなかった。女手一つで育ててくれた母の苦労を知りながら、反抗期を経て遊び呆けた。  私は立派な大人になれなかった。心を病んで働くこともままならない。  生まれてきてくれてよかった。母は言っていた。  強く産んであげられなくてごめんね。母は嘆いていた。  そのやつれた顔に刻まれているのは、正当化と後悔。無理をしなければ、もっと不幸のない人生を歩めただろう。    だからお礼を言われる筋合いはない。謝られる理由もない。  私は母の中に宿ることで、彼女の人生を狂わせたのだから。  刃に当てられて、するすると肌を流れる血液は、湯の中に溶けて私の意識を持っていく。  湯船の外にざあざあと溢れて、私は細い管の中に落ちて行った。  真っ暗でヌルヌルとした感触は、きっと膣の中に似ている。滑るように、時々つまりかけながら、私は管の導かれるままに運ばれて、泥沼のような世界に至った。  ゴミを取り除く網を何度もくぐり抜け、私はたくさんの生物の残骸の中に沈んだ。ぐるぐると、ぐるぐると、輪廻のように流れて巡る。  腐敗臭に揉まれる自分。異形のわからないものだけが漂って、そこかしこのものを齧っている。ああ、ここは地獄だ。そう悟った。 「問題ないかな」 「ああ、綺麗になった。これなら問題ないだろう」  誰だろうか。私の上で声がした。  浄化された魂だけが集められて、今度は硬い管の中に吸い込まれる。  そして、突然、カアッと視界が明るくなった。  私は空のある宙に、放り出されたのだ。  その景色は、見たことがあった。知っていた。全ての生き物の母となる、広い海だということを。  お母さん。お母さん。  ドボドボと乱暴に放り出される魂たちは、瞬く間に海に返っていく。私も、海に、溶けていく。  海と一つになって、今更私は悟った。  この広大な生命の起源は、私という小さな存在を気にかけることはないのだと。  唯一の小さな母が、一人だけ私を産んだ意味を。  これが、そうか。  選んだとか、選ばれなかったとか。  母は必ず一人だけ。その意義は、きっと、私という存在を気にするために決められたのだ。 「かおり!!」  ふと気がつけば、私は白い天井を見ていた。  傍にいるのは、見慣れた人影。 「お母さん……」 「よかった、目を覚まして」  体が動かない。皺だらけの顔を歪めてわっと泣き出した母は、潤う声で私を責めた。 「どうして、どうしてあんなことをしたのよ! お風呂の中で血まみれで、どうして……!」 「……お母さんの中に戻ろうとした」 「え?」  逆流する世界に身を任せて、胎内に戻りて。  私はそれが夢でよかったと、安堵したのだ。
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