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その天使には、お母さんがいませんでした。
天使は、生まれた時から天使でした。
背中の羽も頭の輪っかも、誰に貰ったものなのかは分かりません。白くて風のようにふわふわした服を着て、高い空の上から雲の下を覗いていました。
天使は女の子でした。よく、金色に光る長い髪の毛や澄んだグリーンの瞳を他の天使に褒められますが、彼女は「私が綺麗なんじゃないよ。きっと、私を生んだ誰かが綺麗だったんだよ」と答えます。ですが、じゃああなたを生んだのは誰? と聞かれると、途端に何も言えなくなってしまうのです。私が今ここにいるのは、誰かが私を生んでくれたからのはず。でも、それは誰? どこへ行ってしまったの? 彼女は自分が何もないところから生まれたとはどうしても思えず、毎日雲の下の世界を眺め、時には少しだけ雲の下に降りてみたりして、自分のお母さんがどこかにいないかなあなどと探してみるのでした。
ある時、天使は人間の女の人と仲良くなりました。
仲良くなったと言っても、女の人に天使の姿は見えません。女の人は、大きな白い建物の中で一日中ベッドの上に座っています。他の人間がその建物のことを「病院」と呼んでいるのを天使は聞きました。天使が窓の外から何となく女の人に話しかけてみると、女の人はにっこり笑って答えてくれます。姿が見えていなくても、女の人には天使のことが分かるようでした。
そこで何をしているの? と天使が尋ねると、風の色を見ているの、と女の人が答えます。風に色があるの? と天使。私が思った通りの色になるのよ、と女の人。変なの。変でしょう。そうしてお互いにクスクスと笑うのです。女の人の声はころころと耳の奥で鳴る鈴のようで、天使はその声がとても好きでした。
女の人のところにはたまに、小さな男の子がやって来ました。男の子がやって来ると、彼女はその子の頭を優しく撫で、お話をしたり一緒に果物を食べたりします。男の子と話している時は、彼女に天使の声は聞こえないようでした。天使がいくら話しかけても、女の人はこちらを見てはくれません。そして男の子が帰った頃に話しかけるとようやくこちらを向いて、あらこんにちは、と笑いかけてくれます。天使が少し拗ねていることに気付くと彼女は、ごめんね、お詫びに私の好きな歌を教えてあげる、と言って、天使が聞いたことのないメロディをハミングで聞かせてくれるのです。天使は彼女の柔らかい、優しい歌を聞きながら、気が付いた時にはすっかり機嫌がよくなっているのでした。
それからしばらくして、女の人はあまりベッドの上に起き上がらなくなりました。気のせいか、身体も少しやせているようです。それでも天使が話しかけると、彼女はにっこり笑って顔を窓の外に向け、答えてくれます。
元気がないの? と天使が聞きます。今はないだけよ、直によくなるわ、と女の人は答えます。よくならなくても、私がいれば楽しいよ、と天使。そうね、でも元気になった方がもっと楽しいと思うわ、と女の人。そのうち男の子が遊びに来て、天使と彼女との話は終わってしまいます。ベッドの上に寝転がったまま顔を向こうに向けて男の子と話す彼女を見ながら、この人に羽が生えたらきっと綺麗だろうな、と天使は思うのでした。
そのうち、女の人はいつもの部屋から何日かいなくなりました。鈴のような声も優しいハミングも、窓から聞こえてはきません。天使はつまらなさそうに金色の髪をいじります。その様子を見た他の天使が、どうしたの、と聞いてきます。いつもの女の人がいないの、と彼女が答えると、相手の天使は、そしたらその人はもうすぐこっちに来るかもね、と言いました。それを聞いて彼女は少し考え、まぶたを閉じます。暗闇の中で、女の人が自分と同じ羽と輪っかを身に着けてこちらに笑いかけてくるのでした。
何日か経った夜、天使が窓を覗き込むと、女の人が前と同じようにベッドの上で寝ています。天使がそっとささやきかけると女の人は目を開け、こちらに向けて笑いかけてくれます。
あのね、と天使。きっともうすぐ、あなたに羽が生えるよ。そしたら一緒に遊びにいこう。空の上から、広い海や大きな街を見て過ごそう。それでそれで、私のお母さんになってよ。ですが女の人は少し俯いた後、ゆっくりと首を横に振ります。ごめんね、あなたと一緒には行けないの。私の背中に羽が生えるとね、あの子が泣いてしまうの。私はあの子のお母さんだから、あの子のいないところで勝手にどこかへ行くわけにはいかないのよ。それでも天使は何度も女の人にお願いしますが、彼女はうんと言ってはくれません。天使はだんだん悲しくなって、泣きそうになります。すると女の人は月明かりの中で柔らかい、優しいハミングを始め、そのメロディは天使をふんわりと包み込みます。天使の大好きな歌でした。歌い終わると女の人は天使ににっこりと笑いかけ、こう言います。
あなたのお母さんは、あなたの周りのものすべてよ。
あなたが見る景色、あなたが好きな歌、あなたを乗せて吹く風。それらみんながあなたを守り、寄り添い、励ましてくれるわ。
それでも寂しい時は、そうね。いつかあなたが、誰かのお母さんになるところを想像してごらんなさい。あなたが誰かにとっての景色に、歌に、風になるの。それはきっと、とても素敵なことよ。
忘れないで。あなたの世界に、あなたのお母さんはいつもいるということを。
それから何日かして、女の人は病院からいなくなりました。天使は窓の外で待ちましたが、今度はもう彼女は帰って来ませんでした。仲間の天使に、最近ハミングの上手な、綺麗な女の人が羽を生やしてこちらに来なかった? と聞くと、みんな首を傾げます。
鈴のような声がもう聞こえない、誰もいなくなった窓を覗き込んだ後、天使は一人で空を見上げます。その口からは、いつか教えてもらった優しい歌が自然とこぼれてきて、ああ、やっぱり私のお母さんは綺麗なのだな、と天使は思うのでした。
* * *
「天使はそれから、たくさんのお母さんに囲まれて暮らしましたとさ。……さ、今日のお話はおしまい。よく眠れそう?」
そう言って母は本を閉じ、布団に寝転がった私を見る。
「うん。……お母さん」
「なあに?」
「その天使はそれから、寂しくなかったの?」
「うーん……そうね」
そう言うと母は、私の長い髪を優しく撫でる。
「寂しい時もあったけど……今はもう大丈夫よ」
そして私の頬に軽く口づけをし、優しくささやきかける。
「もうおやすみ。明日もいい日になるといいね」
「うん。おやすみ、お母さん」
暗くなった部屋で、母の温かい感触に包まれ、私は目を閉じる。明日の風は何色だろう、と想像する。
緑色だといいな。母の瞳と同じ、澄んだグリーン。
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