シルフの舞う空の上で

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今日のウィンディ・コーネルはすこぶる不機嫌だった。理由はいくつかある。 なによりもまず最初にあげられるのは、今日も相変わらず彼女の赤い巻き毛がくるくると絶好調に巻き上がってしまっているということ。久しぶりに地上の街へ降りる仕事だからと気合いを入れて早起きをし、時間をかけて髪をしっかりと整えたというのに、折からの強風にあおられて彼女の髪の毛はすっかりいつもの調子を取り戻してしまっている。 次にあげられるのが、彼女の隣にいる父親のヴァン・コーネルが妙に生き生きとしているということ。普段は困ったように大きな傷のある後頭部をかきむしるのが癖で、ウィンディともあまり喋ろうともしないくせに、今に限ってはきびきびと手際よく立ち動いている。しかしウィンディとヴァンが乗っているこの浮舟(ふね)は、国への登録上はウィンディが船長ということになっているのだ。我が物顔で父親が浮船の中を歩き回っていること自体がウィンディの不機嫌を加速させていた。 そして三つ目としてあげられるのが、彼女のお気に入りの浮船である、この「猫のゆりかご(キャッツ・クレイドル)号」の飛空石の調子がすこぶる悪いということだ。内奥から緑色の光を放ち、浮船に浮力と推進力を与えるはずのその石は、心許ない明滅を繰り返している。浮船の名の通り、彼女たちが操っているのは海の波をかき分けるのではなく、空を吹き抜ける風に乗って宙を舞う乗り物だ。最近では金属製の物も世の中に出始めたというが、彼女たちが乗っている「猫のゆりかご号」は昔ながらの霊樹を削り出して作られた船体(ハル)を持っている。通常は目には見えない精霊流(エーテル)の流れを緑水晶のレンズで捉え、それが渦巻く『潮』に乗って浮船を操る、空に浮かぶ大地に住まう者、それがウィンディ達、高地人(ハイランダー)だ。 「やっぱりダメ。飛空石からの流圧がどうしても出ない」 先ほどから船体の中央に据え付けられた炉の蓋を開けて、中にある一抱えほどの大きさの緑色をした結晶のあちこちを叩いていたウィンディが諦めたようにつぶやいた。彼女の落ち込みを反映したかのように、猫のゆりかご号は空中で急速に速度を落とし、明らかに地上へ向かって落下していた。飛空石は浮船にとって心臓部と言える重要な部品(パーツ)だ。内奥から光と共に精霊流を放出するその結晶を船体中央の精霊流炉に据え、管を通じて船体後方から吹き出させることで空中での推進力を得ているため、飛空石から放出される精霊流が無くなってしまえば後は失速して落ちていくだけとなってしまう。空を飛ぶ以上、落下事故は決して無くすことはできない事態ではあるが、飛空石の不調による失速、落下は当然想定される原因であり、飛空石のメンテナンスは浮船乗りにとって息をするよりも当たり前のものとされている。しかし今朝の出発時、ウィンディは髪の手入れに気を取られるあまりに、それを怠っていた。前日の夜に確認した際にはまったく問題なく輝きと精霊流を放っていたために油断していたというのは、今のこの事態に陥ってしまっていることを考えれば言い訳にもならないだろう。 そう、彼女たちはゆるやかに死へと向かっていた。このまま飛空石からの精霊流が戻らなければウィンディ達は浮船ごと地上に叩きつけられて木っ端微塵となってしまうだろう。いまこの瞬間にもびゅうびゅうと彼女の周りを吹き抜ける風の音がまるで死神の呼び声のようにウィンディには聞こえていた。 だというのに。 ウィンディが迫り来る死の恐怖に対して不機嫌になる、という態度でどうにか立ち向かっているのと対照的に、父親のヴァンは見るからに生き生きとしていた。ともすればその口元には薄く笑みが浮かんでいるようにも見える。思わずウィンディは噛みついていた。 「ねえ、どうしてそんなに楽しそうなのよ。私達、いままさに落ちている最中だっていうのに」 問われたヴァンは彼女の質問にすぐには答えず、緑水晶のゴーグルを下ろして浮船の縁を掴み、周囲を何度も見回している。その視線はとても鋭く、少しの変化も見逃すまいとする熟練者の目だった。普段の様子とのあまりの違いに苛立ちを抑えきれず、ウィンディはヴァンの袖を引っ張った。 「ねえ、ちょっと聞いているの!?」 そこでようやくヴァンはウィンディを振り向いた。 「なあウィンディ、あれが見えるか?」 ウィンディの言葉を無視してヴァンは浮船の右舷下方を指し示す。よほど無視し返してやろうかとも思ったウィンディだったが、ぽんと彼女の頭に置かれた手を払いのけながら、しぶしぶとヴァンの指し示す方角に目をやる。彼女の鮮やかな翠玉色(エメラルドグリーン)の瞳が捉えたのは宙に浮かんだ岩場の周りでぐるぐると渦を巻く精霊流だった。 「あそこの渦のこと?」 「そうだ。どの向きで流れている?」 「右回り、やや上向き、かな。岩場の影で見づらいけど、流れはかなり速いと思う」 ウィンディの回答に、ヴァンは満足そうにうなずいた。 「やっぱりお前は目が良いな。母親譲りだよ」 「……」 ヴァンの言葉に複雑な感情が湧き上がり、沈黙で答えるウィンディ。彼女はゴーグルを身につけていない。緑水晶を通してでなければ精霊流を見ることができないヴァンと違って、ウィンディは裸眼で精霊流の流れを『視る』ことが出来た。それは彼女の母親であるサラ譲りの体質だった。浮船乗りとしてはとても貴重で恵まれたこの体質を、しかしウィンディはあまり快く思っていなかった。それは「緑の瞳を持つ者は精霊に愛されているから、すぐに彼らの世界に連れて行かれてしまう」という伝承と、その伝承が示すように、彼女を産んだあと、まだ若くして亡くなってしまったサラの事を思い出させるからだった。 ヴァンがどういう思いで彼女の瞳のことを話題に乗せたのかは分からないが、彼もそのことは少なからず複雑に思っているはずだった。 しかし今は感傷に浸っている場合ではない。いまこの瞬間にも彼らは絶え間なく落下し続けているのだ。 「渦は良いけど、それがどうしたの。今はそれどころじゃないでしょ」 焦りを滲ませながら言うウィンディに対して、ヴァンは不思議なほどに落ち着いている。先ほどと同じようにウィンディの頭の上に、無骨で大きな手を乗せて言ってくる。 「大丈夫だ。この浮船は落ちやしないよ。なにしろ精霊に祝福された女の子が乗っているんだからな」 ヴァンはそう言いながらぽんぽんと繰り返しウィンディの頭を撫でてくる。今度はウィンディもその手を払うことはしなかった。精霊に祝福された女の子。その言い回しは母親のサラが口癖のようにウィンディに対して言っていた文言(フレーズ)だった。彼女を抱きかかえた母親が愛おしげにかけてくる言葉と、無骨だが優しく頭を撫でる父親の手のひら。それは幼いウィンディにとって世界から受ける祝福の象徴だった。じんわりと温かいものが胸に滲んできて、焦りと不安を押し流していく。ウィンディのその気持ちを知ってか知らずか、ヴァンは両手をパンと強く打ち合わせると、「それじゃ、帆を張るか」と言って動きだす。ウィンディはヴァンの言葉が理解できずにぽかんとして聞き返した。 「帆を張る?」 「そうだ。ウィンディにも手伝ってもらうぞ」 ヴァンは言いながら船体中央の床板を剥がし始める。元より簡易な治具で固定されていただけの床板は治具を軽くひねるだけで容易に外れていく。船底から姿を現したのは、まるで地面から霊樹をそのまま引き抜いたような立派な帆柱(マスト)だった。こんなものが船底に格納されているとも知らずに、船長を気取っていたということを思い知らされて、ウィンディは赤面する。ヴァンはとぼけた様子でウィンディに告げる。 「言ってなかったか?この浮船は元々帆船なんだよ。飛空石と精霊流炉を取り付けてからは全然使っていなかったけどな」 そう言いながらヴァンは浮船の中央、竜骨(キール)の真上に格納されていた垂下竜骨(センターボード)を精霊流の中へと蹴り出した。重厚な千年樹(ユグドラシル)を切り出したと思われる立派な垂下竜骨は船体下から飛び出して重々しく精霊流の流れにその身を差し込ませる。途端に浮船は勢いよく精霊流に流され始める。 「わわわわっ!?」 ウィンディはいきなりの揺れに抗いきれずに、その場で尻餅をつく。飛空石の力で無理矢理に精霊流を掻き分けて浮船を動かしていたときには考えられないほどの揺れだった。一方ヴァンは慣れたもので、両足をしっかりと踏みしめながらも、激しい浮船の揺れに抗わずに上手くバランスを取っている。すっ、と目の前に差し出されたヴァンの手を取って、ウィンディはどうにかその場で立ち上がる。久しぶりに掴んだヴァンの手は、昔ながらの分厚い皮に覆われた浮船乗りの手だった。 (でも、昔よりなんだか少し小さくなったみたい) そう思ったのはウィンディの手のほうが、かつてよりも大きくなったらからかもしれない。 ロープを固く結び、筋肉をみしりと浮かび上がらせて帆柱を起こすヴァン。ウィンディはその反対側に回ってもう一本結ばれたロープを操作し、マストを船体中央の窪みに上手くはまるように調整する。がこん、と帆柱が立ち上がると、そのまま二人がかりで主帆(メインセール)を張っていく。 二人が作業をしている間も、猫のゆりかご号は精霊流に乗りつつも地面に向かって押し流されてていく。心配になったウィンディはヴァンに問いかけた。 「ねえ、どんどん流されていってるように思うんだけど、大丈夫なの?」 「大丈夫だ。このまま帆を張って、上手く風に乗ればさっきの渦の所に行ける」 「それから?」 「渦の付近に風精霊(シルフ)の群れがチラリと見えた。風精霊の性質からすればあの渦はこれから上空に向かって巻き上がるはずだ。それに乗って浮船の体勢を立て直すんだ」 言われてみればさっきの渦の流れの中に、キラキラと光る何かが視えたような気がした。しかしそれが風精霊の群れだとはウィンディはまったく気がついていなかった。いくら良く見えていたところで、知識が無ければその現象の意味するところを知ることは出来ない。自分は浮船乗りとして圧倒的に経験が足りていないということを、ウィンディはいやというほど噛みしめていた。知らないことがあるのならば、先達に聞くしかない。たとえ次の瞬間に地面に墜落して果てようとも、自分は浮船乗りなのだ。その矜持(プライド)はウィンディにヴァンを手本とせよ、と告げていた。 「ねえ、渦の所に向かうと言ったけど、風はまさにその渦の方から吹いてきているじゃない。どうやってそこへ向かうの?」 「向かい風でも、いや向かい風だからこそ進めるのさ。この浮船はそういうふうにできている」 ヴァンは吹き付ける風に対してロープを操作して四十五度の角度に帆を張り、船体の向きを調整する。すると風から帆が受ける力と精霊流から垂下竜骨が受ける力が拮抗し、浮船は風上に向かって進み始めた。帆と舵を調整しながら、ヴァンは手慣れた様子で目標とする渦へと向かっていく。ときおり方向転換(タック)を行いながら風上に向かってジグザグに浮船は進んでいく。ウィンディは揺れに弾き飛ばされないように自分の体と船体をロープで結びつけた。岩場の近くまで近づいたところでヴァンの予想通りに岩場の周囲を取り巻く精霊流の渦に動きが生じた。岩陰でざわめいていた風精霊が一斉に動き始めたのだ。輝く羽根を背に負った小さな生き物たち。昆虫のようにも、羽根が生えた魚のようにも見えるそれらは一つの群体として蠢き、うねり、さらに高い上空を目指して一斉に浮き上がっていく。それらの動きに引き摺られるようにして精霊流の流れは向きを変え、天上を目指して遡っていく。ヴァンは風の流れに帆を合わせながら、同時に精霊流の流れに浮船を乗せる。一気に流れが速くなり浮船の速度も加速していった。 「凄い!このまま流れに乗っていけば、無事に戻れそう」 ひたすら下方へと落ち続けていた浮船がようやく上方へとその向きを変えたことで、ウィンディはようやく笑顔を取り戻した。しかし逆にヴァンの表情が曇り始める。 「まずいな……」 「どうしたの?」 ウィンディの問いかけに、ヴァンは舵を操りながら遙か先を指し示す。ウィンディが目をこらすと、精霊流の流れの先には鋭く尖った岩が密集し、複雑な流れを作り出している狭隘な流路が見える。ウィンディは思わず息を飲んだ。 「あれって……」 「悪鬼の隧道だ。何人もの浮船乗りの血を吸ってきた、悪魔の支配する岩場だ」 これまでずっと落ち着いた表情を見せていたヴァンの額には、じわりと汗が浮かび始めていた。舵を取る手にも力が籠もっているのが分かる。 「ねえ、今からでも避けられないの?」 「出来ればそうしたかったんだがな。ここまで浮船に勢いがついてしまうと、いまさら流れを抜けるのは難しい。無理に抜けようとすれば浮船に負荷がかかって最悪転覆してしまう」 「そんな。それじゃあ意味がないよ」 ウィンディに言われるまでもなく、ヴァンもそのことは理解していた。覚悟を決めたように歯を食いしばると、主帆を操るロープをウィンディに差し出した。 「ここから先はこれまで以上に慎重に舵取りをしなければならない。ウィンディ、いきなりで悪いが、帆の操作はお前に任せる」 ヴァンの言葉にウィンディは慌てて左右に首を振る。 「そんな。急に渡されても、私出来ないよ」 「大丈夫だ。さっきまでお前は私の操船をずっと視ていただろう。視ていたとおりにやれば良いんだよ。大丈夫、お前は目の良い子だ。きっとできるさ。その代わり舵は任せろ。あんな場所さっさと抜けて、家に帰ろう」 目の前に差し出されたロープをじっと見つめるウィンディ。悩んでいる時間はない。ちらりと舳先に目をやれば、鋭い牙を見せつけて舌なめずりをしている岩場はすぐそこまで迫ってきている。ウィンディはぎゅっと目を瞑って気合いを入れると、ロープを勢いよく手に取った。 「やってみる」 「頼んだぞ。なあに、大丈夫だ。俺もお前も以前にあそこを通ったことがあるんだ。今回も無事に行けるさ」 意外なヴァンの言葉に、受け取ったロープを全身のばねを使って必死にで引っ張りながらウィンディが尋ねた。 「うそ。私全然覚えてないよ」 目を丸くして言うウィンディに、ヴァンは少しだけ笑顔を浮かべて答える。 「そりゃ覚えてないだろうさ。お前はそのときサラのお腹の中だったからな。でもその直後だったんだよ。お前が生まれたのは。陣痛が始まったサラをこの浮船に乗せて、俺はここを抜けたのさ。お前はそのままここで、この浮船の上で生まれたんだよ」 「じゃあ、猫のゆりかご号って」 「猫はお前のことだよ、ウィンディ。俺は姫のゆりかごって名前にしようと言ったんだけどな。サラに止められてしぶしぶ名前を変えたのさ」 そう言って少し照れくさそうに頭を掻いた後、ヴァンは表情を引き締めて前方を向いた。ウィンディがヴァンに向かって何を告げるべきか逡巡しているうちに、浮船は悪鬼の隧道へと突っ込んでいた。 「お喋りは終わりだ。突っ込むぞ」 ヴァンの言葉に促され、ウィンディはロープを握る手に更に力を込める。執念深く磨かれた死神の鎌のように鋭い岩がびゅんびゅんと浮船の周りを飛び抜けていく。少しでも舵取りを誤れば、浮船ごと鎌に命を持って行かれてしまうだろう。風はどんどんと勢いを増し、疾強風(ゲール)大強風(ストロングゲール)全強風(ストーム)とあっという間に強大になっていく。風になぶられる木の葉のように猫のゆりかご号は精霊流の中を振り回されながら進んでいく。ヴァンの操船技術は凄まじいものがあり、並の浮船乗りならとうの昔に制御を失っているだろう渦の中で浮船を見事に操っていた。一方でウィンディは数瞬ごとにこちらをあざ笑うかのように向きを変える悪鬼の風に、帆を飛ばされないようにするが精一杯だった。 「無理はしなくていい。風に力で逆らおうとするな!」 ヴァンは舵を取りながら、ウィンディに助言を送る。ウィンディは必死になってロープを支えるが、握力はすでに限界で、ロープを掴む手の感覚はもう無かった。ぬるり、とした違和感を受け、手元に目をやると、荒く編まれたロープと擦れて手の皮がすべて剥けてしまっていた。 一瞬そちらに気を取られた隙を、死神が狙っていたのだろうか。ウィンディは左肩に衝撃を受けたかと思うと、次の瞬間には空中にいた。浮船を襲った岩の一つが、運悪く彼女に激突したのだ。 突然の出来事に理解が追いつかず、呆然としたまま船外に弾き飛ばされたウィンディの体が、がくんと空中で止まる。彼女の体に結ばれたロープのもう片方を、ヴァンが必死の形相で握りしめていた。右手で舵を、左手でウィンディのロープを掴んでいるヴァンは、左右からかかる負荷に引き裂かれそうになる体を必死でこらえながら、じりじりとウィンディのロープを引っ張っていく。そんな彼に死神がさらに一撃を加えてくる。ウィンディを襲ったものよりもさらに大きい岩がヴァンの頭を直撃したのだ。頭にあった古傷が開き、飛びそうになる意識をヴァンは奥歯をかみ砕きながらどうにか繋ぎ止める。 「ウィンディ。大丈夫か、ウィンディ!」 ヴァンの懸命な呼び掛けにようやくウィンディが我を取り戻す。ぱたたっ、とウィンディの顔にヴァンの頭から流れ落ちた血が落ちる。どくどくと恐ろしいまでの勢いで流れ出す血潮は、そのままヴァンの生命が流れ出してしまっているかのように見えた。ウィンディが叫ぶ。 「お父さん、もういいよ、離して!このままじゃお父さんも落ちちゃうよ!」 彼女の言葉に、それでもヴァンは口の端を持ち上げて答える。 「離すわけがないだろう。あの時、お前が生まれた時も、こうだったよ。あの時も俺は頭に岩を受けたけど、俺もサラも、ウィンディ、お前だって生き残ったんだ」 言いながらヴァンは流れ出る血をものともせずにぐいぐいとロープを引っ張っていく。ウィンディはそれを見て、それ以上何も言わずに血だらけの手でロープを掴んで自らの体を引き上げ始めた。お互いがお互いを死なせるわけにはいかないと、必死に手を動かしていく。ロープを真っ赤に染めながらもウィンディがどうにか浮船の上に体を横たえたときには、猫のゆりかご号は悪鬼の隧道を抜けていた。死神の断末魔のようにひときわ強い風が浮船の上を吹き抜けた後は、さっきまでの出来事が嘘だったかのように、風は軟風(ジェントルブリーズ)へと姿を変えていた。 どうにか生き残ったことを確信し、浮船の床に倒れ込んだ二人は、並んで体を横たえて、空を見上げる。視界の端にキラキラと光るのは、風精霊の煌めきだろうか。 「お前が生まれたときも、こんなふうに風精霊が舞っていたんだ。お前は祝福された子なんだよ、ウィンディ」 ヴァンの言葉に、ウィンディは素直にうなずいていた。たとえ風精霊が祝ってくれていなかったとしても、彼女は両親によって十分に祝福されていたということを、改めて感じ取っていた。ウィンディは父親に呼び掛ける。 「ねえ、お父さん。帰ったら、私にこの浮船の乗り方を教えてくれる?」 もちろん、と笑顔で答えるヴァン。 そっと静かに手を取る二人の頭上で、軽やかに風精霊が舞い続けていた。
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