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学校から帰ると、和室からお香の匂いがした。
母は水曜日に、家でお茶を教えている。下駄箱の上には、金魚鉢の横に、母の茶名が入った細長い木製の看板が飾られている。
わたしはお香が苦手だった。毎週水曜日、和室から漂う匂いは、きちんとドアを閉めたわたしの部屋にズカズカと侵入してくる。
茶道で使うお香は、お墓参りの線香よりも上品な香りだ。けれども、お年玉で買った大好きなバンドのパーカーに、お香の匂いが染み付いてしまった。制服姿のわたしは、ドラム式洗濯機に直行した。
「マジありえないんだけど」
リビングでは、稽古を終えた母とお弟子さんが、おしゃべりをしている。弟子といっても、二人とも同じ町内のおばさんだ。わたしは学校の廊下ですれ違う、学年の違う先生にお辞儀をするような感覚で、頭を下げた。
「みのりちゃんもお茶、習わないの?」
「来年、受験なので……」
その先の言葉を、わたしは考えていなかった。
受験が終わったら、習います。
受験が終わっても、習うつもりはありません。
母はわたしが小さい頃から、先生の家に稽古に通い、ようやく師範の免状をもらった。今は点前の基本となる薄茶を教えている。母はわたしにお茶を習いなさいとは言わないけれど、実のところ、本音はどうなんだろうか。
透かし模様の湯呑みの隣には、朱色の袱紗(ふくさ)と懐紙(かいし)が、行儀よく置かれていた。
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