水曜日のにおい

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 襖の前で両手を付き、床の間の横に座る母に一礼をする。 「よろしくお願いします。一服差し上げます」  菓子器を胸の位置で掲げ、左足から和室に入った。歩数を間違えないよう、歩幅を調整する。  桜子から聞いた話を思い出しただけで、気持ちがささくれだった。せめて稽古中は雑念を消し、お点前に集中しなければならない。頭では分かってはいても、まず歩幅が乱れた。母からやり直しを求められ、頬が赤くなった。  お湯を捨てる建水(けんすい)と尺を持ちいで、点前の位置に座った。臍下丹田(せいかたんでん)に力を入れ、居住まいと呼吸を整えた。  お香の匂いが、釜からあがる湯気に乗って、漂ってきた。  高校時代、ずっと苦手だと思っていた匂いは、わたしの気持ちを優しく沈め、清めてくれた。  母に次の手数を教えてもらいながら、点前を進めていく。茶碗に抹茶を入れ、お湯を汲み、茶筅でゆっくりと茶を馴染ませ、点てる。  ふわっとお茶の香りが鼻先をくすぐる。この空間はわたしを日常から解き放ち、徐々に気持ちを一点に集中させてくれた。  茶碗を回し、お茶を飲み終えた母が頭を下げた。 「美味しく頂きました」  荒れていた心が、嘘のように穏やかになっていった。母はお茶碗を戻しながら、釜からあがる湯気の流れを追っている。 「お茶を習ってくれてありがとう。みのりは大学で英文科を専攻しているから、将来他の国の人に日本文化を伝えることができればいいね」  わたしは咄嗟になにも言えなくなった。茶道も茶席での出会いから、文化や歴史を学べる。広がりは無限大にあるだろう。お茶を始めるきっかけを作ってくれてありがとう。 「お茶、楽しいよ」 「まだまだ稽古は続くけど、楽しむのが一番よ」  これからの稽古は楽しさだけではないだろう。修行は長い道のりだ。けれども、自分の生活の一部として、その道を歩く選択肢もあるはずだ。 「頑張ってみるよ」 「お母さんだってまだまだ勉強中だもの。道がつくものには終わりはないからね」  炭がはぜ、釜のお湯の音が変わった。 「もう一服いかがですか」  わたしの申し出に、母は「頂戴いたします」と歌うように応えた。                              了
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