マザーグースの子守唄

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 冷たい雨がしとしとと降っている。  ジョージは両親が寝静まっているのを確かめると、静かに起き出し、フード付きの雨具を羽織った。  戸口の鍵を開けて、外に出ようとしたときだった。 「お兄ちゃん、こんな夜中にどこへ行くの?」  振り返ると、弟のダンが不安そうにジョージを見上げている。 「しー。静かに。パパとママが起きちゃうだろ」 「怒られるよ」 「黙っていれば、平気だよ」 「でも、夜は危ないでしょ?」  ダンはジョージより4つ年下で、この間7歳になったばかりだ。  とはいえ、もういっぱしの口をきくようになったし、大人に隠し事だってできるだろう。  そろそろ「彼女」の元へ連れて行ってもいいかもしれない。 「ダン、お前も来るか?」  ジョージがそう言うと、ダンはとたんに目を輝かせた。 「行く!」  冷たい雨の降る夜だ。  ダンにも雨具を羽織らせて、ジョージは静かに家を出た。  真っ暗な夜道を照らすのは、頼りないランタンの明かりだけだ。 「ねえ、お兄ちゃん。いったいどこへ、何しに行くの?」 「村はずれにある森の広場へ、お話を聞きに行くんだよ」  ジョージは夜道を歩きながら、ダンに「彼女」のことを教えた。  彼女はこうした寂しい夜に、お話をしにやってくる。  彼女がやってくるといううわさは、どこからともなく聞こえてきて、子どもたちの間だけで広がるのだ。大人には絶対に教えてはならない。  彼女の語るお話は、子どもたちの心を引きつけてやまない。とてもおもしろくて、胸が躍る。子どもたちは皆こぞって聞きに来る。 「『彼女』って、どんな人?」 「グースという名前の、若くて綺麗な女の人だよ。僕たちのお母さんより、ずっと若い。でも、子どもがいるんだって。ロビンって名前の、男の子。もうすぐ7歳になるから、お前と同じくらいだな」 「じゃあ、グースおばさんだ」 「ううん。おばさんなんて呼べないくらい若いんだ。だから、僕たちは彼女をこう呼ぶんだよ。  ――マザーグースって」  村はずれに近づくと、遠くにもかすかなランタンの明かりが見えた。  ジョージが自分のランタンを振ってみせると、向こうも同じように挨拶を返してきた。 「あれは誰?」 「村中の子どもたちが集まってくるんだ。きっと知っている誰かだよ」  森の広場に近づくと、小さな明かりはたくさんに増えた。  最初に見つけた明かりは、近所の家のケントだった。 「やあ、ジョージ。今日は弟も一緒か?」 「やあ、ケント。7歳になったから連れてきたんだ。君のお兄さんは一緒じゃないのか?」 「……兄さんは『大人』になったんだ」  ケントは少し不満げに視線を落として、ぽつりと言った。 「そうか。残念だな」 「ねえ、どういうこと?」  ダンが不思議そうに尋ねる。 「子どもは大人になると、マザーグースのことを忘れてしまうんだ」 「どうして?」 「わからない。みんな大人になるときに、いろんなことを忘れていくんだ」  広場に着くと、すでに10人ほどが集まっていた。ジョージたち3人も、その中に加わった。  さらに子どもたちがやってきて、全部で15人の大きな輪ができたころ、森の奥からマザーグースがやってきた。  マザーグースは美しい。透き通るような白い肌をしていて、つややかな亜麻色の髪をスカーフでまとめている。その瞳は宝物のように青く澄んでいて、頬には今にも壊れてしまいそうな儚い微笑みを浮かべている。 「今日もたくさん来てくれたのね。あら、初めて見る子。お名前は?」  マザーグースはダンを見て名前を尋ねた。  ジョージの隣に座る弟の体がこわばった。きっと彼女の澄んだ瞳に見つめられて、緊張してしまったのだ。 「ほら、名前を言って」  ジョージが肩を叩くと、ダンは小さな声で呟いた。 「……僕は、ダン」 「そう、ダン。来てくれて嬉しいわ」  それからマザーグースは15人の子どもたちに順番に声をかけ、お話を始めた。  マザーグースのお話は、いつも唄に乗せて語られる。  誰が駒鳥殺したの?  それは私、とネズミが言った  私が足を噛んだから  誰が駒鳥看取ったの?  それは私、とカラスが言った  私のような黒い羽  誰が駒鳥お墓に埋めた?  それは私、とフクロウが言った  小さな穴を掘ったのさ  誰がお花を供えたの?  それは私、とツグミが言った  骨のように白いユリ  誰がその死を悲しんだ?  それは私、とみんなが言った  空の小鳥は一羽残らず涙を流し  お墓に雨を降らせたの  明るい調子の唄なのに、語られる話は哀しいものだ。  それを唄うマザーグースも、雫を落としそうな瞳をしていた。  楽しいときに口ずさみたくなるメロディが、どうして彼女をこんなに哀しくさせるのだろう。  マザーグースの声は絹の織物のように滑らかで、聞き入っている子どもたちは、哀しいのはなんて美しいんだろうと思った。  夢中になってお話を聞いているうちに、少しずつ体が冷えてきた。 「今日はもうおしまいにしましょう。あなたたちも、風邪を引く前に帰るのよ」  マザーグースはそう言って、森の奥へと消えていった。  子どもたちは唄の余韻に浸りながら、ひとり、またひとりと、村の方へ帰っていく。 「なあ、ジョージ」  興奮した様子のケントに呼ばれて、ジョージははっと我に返った。 「うん、僕たちも帰ろうか」 「違うって。マザーグースのあとをつけてみないか?」 「なんだって!?」  ジョージだけでなく、残っている子どもたちも驚いた。 「森の奥に、マザーグースの家があるんだろ? そこには病気のロビンが寝てるんだ。俺たちが遊びに行けば、喜ぶさ」  ケントが言うと、子どもたちの何人かが賛成の声を上げた。  マザーグースのひとり息子は、重い病気にかかっているのだ。彼もきっと、友達をほしがっているだろう。 「僕たちも行くよ」  ジョージとダンは顔を見合わせ、そう決めた。  しとしとと降る雨の中、子どもたちは雨着の中にランタンを隠し、森の奥へ入っていった。  足音を殺して進んでいくと、やがてマザーグースの明かりに追いついた。 「どこまで行くんだろう?」 「静かに。気づかれるぞ」  疑問を口にした子どもを、ケントがいさめた。  ロビンを喜ばせるというのは建前で、子どもたちはちょっとした冒険気分を味わっていた。  あるところで、マザーグースの足が止まった。そこに家のようなものはない。  マザーグースは大きな石を動かしている。  そうして石をどけると、その下の穴に入っていった。  見つかる心配がなくなって、子どもたちは辺りを照らした。  足元には、白いユリの花が咲いている。 「おい、ここは……」 「墓場だな」  勇気のあるケントも、ごくりとつばを飲み込んだ。  ダンは震えてジョージにしがみつくが、ジョージだって足が震えた。 「ケント、もう帰ろう」  ジョージはケントの肩をつかんだが、ケントはそれを振り払った。 「あの穴の下を見てみよう。臆病者は帰ればいいさ」  ケントが馬鹿にした調子でそう言ったから、ジョージは帰れなくなった。  穴をのぞくと、狭くて暗い階段が下に続いていた。 「下りるのか?」 「当たり前だろ」  ケントは先頭に立って階段を下りていった。  ジョージたちも、それに続く。  階段の下には、みんなが入れるくらいに広い空間があった。  ジョージたちがそこまで下りてくると、先に行ったケントが無言で立ち尽くしていた。 「どうした?」 「あ……」  振り向いたケントは、真っ青な顔をして、唇をわなわなと震わせている。  ジョージは驚き、ケントの指さす先をランタンで照らした。  そこには、小さな子どもの白骨が横たわっていた。  入り口は下りてきた階段しかないのに、マザーグースの姿はどこにもない。  幼いダンが悲鳴を上げた。  すると子どもたちは恐怖に駆られ、我先にと階段を上って逃げ出した。 「大変だよぅ!」  子どもたちは口々に叫んだ。 「マザーグースは骸骨の子どもと暮らしてた!」 「マザーグースは魔女だった!」  村に帰ると、マザーグースのことは大きな騒ぎになった。  骸骨を見た子どもたちが、マザーグースのことを大人に言いつけたのだ。  ジョージは親にこっぴどく叱られた。  マザーグースのお話を聞いたほかの子どもたちもそうだろう。  次の日には、村の教会の牧師様が、子どものいる家を一軒一軒清めてまわった。 「あの女は魔女に違いない」 「十字架を持て! 魔女を追い出すぞ!」  村人たちは寝不足の目を血走らせて、松明片手に出て行った。  ジョージとダンの母親は、子どもたちを抱きしめ、一心不乱にお祈りをした。息子たちが、悪魔に連れ去れてしまわないように。 「ママはどうしてお祈りしているの?」  事の大きさをわかっていないダンが無邪気に尋ねる。 「おまえたちが会っていたのは、昔村はずれに住んでいた恐ろしい魔女よ。あれは黒猫や野鳥を使い魔にして、村に病気を運んだの」 「だけどママ、彼女のせいで病気になった子どもはいないよ」  ジョージがおずおずと反論すると、母親は目を吊り上げて怒った。 「お黙りなさい。あれが不吉な唄を唄うと、必ず村に病人が出たの。私のおばあさんが言ってたわ」 「マザーグースの唄のせいなの?」 「あれの名前を呼ばないで」  母親は忌々しそうに顔を歪めた。  夕方になると、大人たちが帰ってきた。 「墓石の下にはたしかに穴があった。でも、骸骨の子どもはいなかったよ。どちらにしろ、墓はもう焼いてしまった。何も怖がることはない」 「ごめんなさい……」  ジョージはすっかり肩を落とした。  だけどジョージが謝ったのは、大人たちに叱られたからではなかった。  自分たちが犯した罪の大きさに気づいたのだ。  軽い気持ちでマザーグースのあとをつけてしまった。そこで見たものに驚いて、大人たちに秘密を漏らした。  その結果、マザーグースとロビンの家は焼かれてしまったのだ。  誰が彼女を殺したの?  それは僕だ、とジョージは言った  僕とケントとみんなが殺した  マザーグースが哀しげに唄った理由が、ジョージにはわかった。  厳しい冬をひとつ越し、暖かい春がやってきた。  あれからマザーグースを見た者はいない。  村の子どもたちも、しだいに彼女のことを忘れていった。  ジョージの罪悪感は時とともに薄れ、たまに思い出しては疼く古傷のようになっていた。  ある日の朝、ジョージはテーブルの下で1匹のネズミが死んでいるのを見つけた。  誰が駒鳥殺したの?  それは私、とネズミが言った  私が足を噛んだから  不意にマザーグースの唄を思い出しながら、ジョージはネズミを片付けた。  噛まれたら駒鳥みたいに死んでしまうのだろうか。  そう思うと、小さな死骸でも気味が悪い。 「ジョージ、どうしたの?」 「何でもないよ、ママ。手が汚れたから洗ってくる」 「そう。早くしなさいね」 「わかってる」  ジョージが戻ると、テーブルにはパンとスープが並んでいた。  神様に感謝をささげて、食事にありつく。 「今日はダンと一緒に、ケントの家に行ってくるよ」  ジョージが何気なく言うと、母親が心配そうに眉根を寄せた。 「やめておきなさい。彼のおじいさまが、はやり病にかかったそうなの」  すると父親が目を見開いた。 「本当かい。この前も村で葬儀を出したばかりじゃないか」 「悪い病気がはやっているのかしら」 「恐ろしいことだ。主よ、我々を守りたまえ」  父親は胸の前で十字を切った。  食事のあとで、ジョージはダンにささやいた。 「こっそりケントに会いに行こう」  ジョージとダンは教会に行くと嘘をつき、ケントの家を訪ねた。  裏手に回って木窓を覗くと、友人の姿に気づいたケントが出てきた。 「なあジョージ、マザーグースの唄を覚えているか?」  ケントは恐ろしげな顔でそう尋ねた。 「どの唄のこと?」  今朝マザーグースのことを思い出したばかりのジョージは、息を飲んで聞き返した。 「最後に聞いた唄だ」  誰が駒鳥看取ったの?  それは私、とカラスが言った  私のような黒い羽 「それが何?」 「じいさんが、真っ黒になって死んだんだ。マザーグースが唄ってただろ。茶色い羽の駒鳥が、カラスみたいに死ぬんだよ」  ケントの言葉に、幼いダンが震え上がった。 「……ママが言ってた。マザーグースが唄うと、必ず病人が出るって」 「待てよ、ダン。僕たちはずっと前から、マザーグースの唄を聞いてた。だけど病気になったことはなかったんだぞ」 「俺が大人に告げ口したからだ。マザーグースは、家を焼かれて怒ってるんだ」 「ケントも落ち着け。反対だ。マザーグースが唄わなくなったから、みんな病気になったんだ。だって彼女は、あんなに優しそうに唄っていたじゃないか」 「お前はじいさんが死ぬところを見ていないから言えるんだ」  不安に取り憑かれてしまったケントには、何を言っても無意味だった。 「……帰るよ。はやり病はきっと収まる。悪い魔女なんていないんだから」  だけど、村の病人は増えていった。  大勢の人が熱にうなされ、幼い子どもや老人から先に死んでいく。  村人たちは神に祈り、聖水を浴びたが、何の効果も表れなかった。  その熱病に、ダンも倒れた。  まだ7歳の小さな体は、内側から燃えているように熱くなった。 「ロビンが、きた……」  うわごとを繰り返すダンに、母親が夜通しの看病を続けた。  それでもダンは、弱っていった。荒い呼吸をするたびに、命が逃げていくみたいだ。 「ダン、しっかりしろよ。お兄ちゃんが一緒にいるからな」  ダンの体は熱いのに、握った手だけは氷のようだ。見ると、その指先は、カラスの羽色に染まっていた。 「マザーグース……」  ジョージは神に祈らなかった。その代わり、心の中で彼女を呼んだ。  マザーグースは病気を広める魔女ではない。  美しい唄を唄う人だ。  もう一度会えたら謝りたい。  ジョージはマザーグースを信じていた。 「ごめんなさい、マザーグース」  そこに唄が聞こえてきた。  マザーグースの唄だった。哀しげで優しい、彼女の唄。  ジョージは眠る弟を背負って、家を飛び出した。  マザーグースのところに行かなければならない。  大人たちには声が聞こえなかったようだ。ダンに付き添って眠る母親は、目を覚ます気配を見せなかった。  森の広場にたどり着くと、そこにはすでに子どもたちが集まっていた。  ケントも広場に横たわっている。  元気な子どもは、病気で弱った兄弟を背負って。兄弟がいない病気の子どもは、這ってでも広場にやってきた。 「マザーグース」 「あなたも来たのね、ジョージ」 「ずっと謝りたかったんだ。あなたの家を燃やしてごめんなさい」 「私は嘘をついていたわ」  マザーグースは、うつむいたジョージの頭をなでて言った。 「あそこで眠っていたのは、私の息子のロビンじゃないの」 「じゃあ、誰が?」 「黒い病よ」  マザーグースは唄い始めた。  誰が魔女を追い出した?  それは村人  ロビンとふたり小さな小屋へ  どうしてロビンは痩せていた?  貧しい暮らしをしてたから  昨日のパンもなかったの  誰が猫を吊したの?  それも村人  ネズミを殺す賢い猫は悪い男に殺された  誰が病気を運んだの?  きっとネズミよ  噛まれた傷が膿んだから  誰がロビンを殺したの?  それは病よ  痩せた子どもを殺したの  唄を聞き終えた子どもたちは、ひとり残らず涙を流した。 「村の人たちが憎くないの?」 「もちろん、許せなかったわ。だけどこの病がまた小さな子どもを殺したら、そちらの方が哀しいもの」  だからマザーグースは、息子を殺した病気とともに暮らしていた。  病気を眠らせる、子守唄を唄いながら。  いつの間にか、マザーグースを囲むみんなの間に、骸骨の子どもたちが交じっていた。  誰もそれに気づかないだけで。 「さあ、行きましょう」  マザーグースが立ち上がると、骸骨たちも動き出した。  まるで母親について歩く子どものように、マザーグースを追っていく。  病気の子どもの数だけいた骸骨たちは、マザーグースと森に消えた。 「お兄ちゃん……」  弱々しい声に呼ばれて見下ろすと、抱えていたダンがうっすらと目を開けていた。 「ダン、大丈夫か?」 「マザーグースが、僕の病気を連れて行った」  ダンはゆっくりと首を動かし、マザーグースが消えた暗闇を見た。 「待ってろ、すぐに戻ってくるから」  ジョージはダンを寝かせると、マザーグースを追って走り出した。  森を抜けて、焼けた墓場へ。  墓場をこえて、森の奥へと。  そうしてマザーグースの背中を見つけた。 「マザーグース!」  ジョージが呼ぶと、マザーグースは足を止めた。 「ジョージ、ついてきてはいけないでしょう?」 「マザーグースには、いつも骸骨が見えていたの?」 「昔からよ」 「だから唄を唄ったの? 誰もわかってくれなかったのに」 「仕方がないわ。子守唄を唄えるのは私だけだもの」  彼女はゆっくりと振り返った。  いつもの優しそうな声だったけど、振り返った彼女の顔は、白い骨になっていた。  ジョージは驚き、腰を抜かした。 「お母さん、どうしたの?」  骸骨の子どもたちが尋ねる。 「お母さん、早く行こうよ」 「ええ、行きましょう。なんでもないわ。風が草木を揺らしただけよ」  マザーグースは、骸骨の子どもたちとともに歩いて行く。  その行き先を示すように、哀しげな唄が響いていた。  Who killed Cock Robin?  ――誰が駒鳥殺したの?
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