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 郷田龍太(ごうだりゅうた)はクローゼットから紺色無地のネクタイを取り出して、慣れた手つきで首に巻いた。結び目を喉元に押し上げるようにして締めると、軽く気道が圧迫されるような感触がする。  鏡に映る、頭の先から胸元までの自分を見る。  30代後半の、男の姿。自分は成功者なのだという自信を、塗り重ねるように新たにする。  今日も、充実した素晴らしい、かけがえのない一日を過ごさなければならない。  午前7時16分。  郷田はラップトップの入った手提げバッグを持つと、リビングに出た。  一人息子で今年小学二年生の翔太は、ダイニングテーブルでトーストを齧っていた。 「たぶん今晩は、早く帰って来れると思うから」台所に居る妻に声を掛けた。 「あ、うん。わかった。晩御飯は用意しててもいいのね?」妻が訊ねる。 「よろしく。それじゃ、行ってきます」 「行ってらっしゃい」翔太と妻が同時に言った。  都心の個人宅が並ぶ住宅街。そのうちのひとつが郷田の自宅となる。  敷地80坪、2台分の車庫付き二階建ての自宅は、周辺の地価を考慮すると豪邸と言ってもいいだろう。  門扉の向こうの公道に、60代前半の男が待機していた。彼は、郷田の専属運転手兼秘書の山本。 「おはようございます」山本が郷田の姿を見て言った。 「おはようございます」  山本は白い手袋を着けた手で、ハイブリッド車の後部座席ドアを開けた。  郷田は門扉を通り抜けて、ぬるりと車に乗り込んだ。 「社長、いつもの場所でよろしゅうございますか?」運転席に乗り込んだ山本が言う。 「あ、はい。お願います」  金属が擦れるような微かなモーター音を立てて、車は動き始めた。  郷田はスマホを胸ポケットから取り出して、ブラウザで日本経済新聞社のトップページを開いた。  夜中のあいだに変動した、CMEの日経平均先物の値を確認する。昨日の東証の大引けよりプラス1.2%ほど高くなっている。ダウ平均やS&P500、為替や長期金利などは特に目立った動きはない。  証券会社のアプリにログインして、個人で運用している金融資産の時価を見ると、80億円あまりとなっていた。この80億の中に自分の会社の株式は含まれていないので、全て純粋な流動資産となる。  スマホの画面に表示されたトップニュースは、不安定化しつつある与党内の政局について報道するものだった。
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