右手にグローブ、左手に夢

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 シューズの紐を結び直す俺の隣で、ルキが「マコ、あのさ」といつになくかしこまった様子でつぶやいた時だった。  突然、離れた場所から「あー佐々木ー! (わり)いー!」と大きな声が聞こえた。  ルキと俺が同時に顔を上げたのは、ふたりとも姓が「佐々木」だからだ。俺たちは兄弟でも親戚でもない。たまたま同じ高校の同じ野球部に所属する同級生だ。  地面に転がっているいくつもの白い野球ボールの間を絶妙に縫いながら、声のした方向から独特の模様のサッカーボールがごろごろと転がってきて、俺のシューズのつま先に当たって止まった。  サッカー部の練習着を身にまとった声の主が軽快な足取りでこちらに駆けてきた。どことなく顔に見覚えがあるから俺たちと同じ三年生なのだろう。  ルキはというとまったく興味なさそうに顔をそむけている。もともとぶっきらぼうなのに、眉間に皺を寄せたことによりますます無愛想に見えている。相手にする気などまったくなさそうなので、俺はしぶしぶ靴紐から手を離してそのボールを拾い上げると、数メートル先のそいつにゆるく投げた。  たいして力を入れていなかったはずなのにそいつはパシッと大きな音を立てて受け止め、「さすが左のエース。いい投げっぷり」と妙に爽やかな笑顔を浮かべた。褒め言葉にしては下手くそだし意図がわからない。  困惑しているとそいつは「サンキュー」と間延びした口調で言いながら、サッカーボールを小脇に抱えて自分たちの練習場所へ戻って行った。 「あいつ、マコの知り合い?」  去っていく後ろ姿を醒めた目で見やりながらルキが訊く。 「いや、知らない。ルキの知り合いなんかと思った」 「いや、俺も知らん」  背後から「おーい、双子ー! 始めるぞー」と練習開始を告げる声がかかった。俺が慌てて靴紐を直す間に、ルキはさっさとみんなの方へ向かってしまった。  がっしりとしたその背中を俺は小走りで追いかけながら、ルキが自分に何か言いかけていたことをぼんやりと思い起こしていた。      *  俺とルキには血の繋がりがないのに、野球部の仲間うちではふたりまとめて何故か「双子」と呼ばれている。「佐々木」と呼ぶより発音しやすいからだそうだが、同じ姓であること以外、俺たちは見た目、性格ともに似ても似つかない。  ルキこと佐々木(ささき)瑠輝(るき)は特別進学コースで一二を争う成績の持ち主ながら、野球部に入部して間もない頃から剛速球の右腕エース候補として活躍してきた。女の子みたいなキラキラネームだが、勉強と同じぐらい身体を鍛えるのが好きで、高校生離れした筋肉質の体型はラグビー部や柔道部とたびたび間違われるほどだ。部活以外の時は黒縁眼鏡がトレードマークで、ド近眼なので目つきはつねに悪く、合理的な性格から冷淡で無愛想と捉えられることが多い。自分自身を客観的に分析する能力があり、「不器用なゴリラ」と自称しては俺たちを笑わせる。  一方の俺、佐々木(ささき)麻琴(まこと)は幼少期から「マコちゃん」だなんて可愛らしい呼ばれ方をしてきたが、「なんだ、男か」とがっかりされたことも数知れず。高校に入ってから急激に伸びた身長は190センチ近くになり、典型的な投手体型だと自分では思っている。歴史の教科書に出てきそうと言われるタイプの、一重まぶたで目の細い、昔ながらの日本人顔。野球以外の運動神経はまあまあだが、勉強は下から数えた方が早いレベルの残念な成績だ。子供の頃から野球でも日常生活でも左利きで、高校に入ってからは左腕投手の筆頭だと期待してもらっている。  堅実なルキとマイペースな俺という正反対の性格をした俺たちだが、クラスも寮の部屋も同じになったことはないのにどういうわけか一年生の頃から馬が合い、気がつけば一緒にいて、野球のことから女の子の話、どうでもいい世間話まで、なんでも語り合う仲になっていた。周囲からは「右のルキと左のマコ」、あるいは簡略化して「双子」と呼ばれ、ふたりで一組のような扱いをされながら高校生活もこの春から三年目を迎えていた。  ルキとのそんな関係は、俺にとっては居心地の良いものだと考えてきた。  だから、この関係が永遠に続くとまでは思わなくとも、いつか途絶えてしまうということなんて、つい最近までは想像したことがなかった。      *  ここ何日か、将来のことを考える時間が増えた。  三年生になり進路を明確に決めなければならないというのももちろんあるが、それ以前に家族のことを考えるきっかけがあったのだ。  春休みに寮から実家に帰省した時だった。  母も兄も笑顔で俺を迎え入れたが、ふたりとも以前よりも痩せていることに観察力のない俺でも気がついた。兄にこっそり尋ねると、母の体調があまり芳しくないと言う。「歳のせいらしいけど」とあまり心配していない様子の兄は、母に仕事を減らさせて、その分自分の残業を大幅に増やしているのだと打ち明けた。  ――マコはこっちのことは気にしなくていい。  ――野球に集中してればいいんだよ。  ――お前は俺と母ちゃんの希望の星なんだから。  口癖のように何度も聞かされ続けてきた兄の言葉が、この時初めて俺の上に重くのしかかっているように感じられた。  母は女手ひとつで俺と兄を育ててくれた。朝から晩まで休む間もなくパートタイマーの仕事を掛け持ちしながら、土日には野球少年だった俺たち兄弟の練習や試合にいつもついてきてくれた。あまり上達しなかった兄は早々に野球を諦めて高卒で就職し、俺に「マコが母ちゃんの夢を叶えてほしい」と言った。  母の夢は息子を一流の野球選手に育てることだった。  だから、俺は小さな頃からずっと、プロ野球選手になって母を楽にさせてやりたいと考えてきたし、プロが無理でも大学や社会人野球で名の知られる選手になることを目標にして、これまで一心不乱に練習に励んできた。  だが……。 「一流の野球選手になる」というこの夢は、誰のために何を生み出すものなのだろうか。  実家から寮の自室に戻った時、そんなことをふと考えてしまったのだ。  自分が野球を続けるために母と兄が骨身を削って働き、学費を稼いでくれている。それは俺自身が本心から望むことなのだろうか?  一度そんなことを考え出してしまうと、楽しかったはずの野球も、光り輝いて見えていた将来の夢も、一気にくすんで見え始めた。  そして先日、今年度最初の担任教諭との面談で「大学進学はやめたい」とつい言ってしまったのだった。  学力のない俺にとって、大学進学は高校卒業後も気兼ねなく野球を続けられる手段でしかない。それでも「野球ができる」という事実は、それまで俺にとっては輝かしい希望であるはずだった。  野球は大好きだし、これまでの努力で手に入れた「左腕投手の有望株」という立場を簡単に手放す気にはなれない。  だけど……。  母と兄のやつれた笑顔が、事あるごとに脳裏に蘇る。  俺が野球を続けることが、本当に母たちのためになるのだろうか。  そんな葛藤にがんじがらめにされたまま、俺は抜け出す術を見つけ出せずに、ただ闇雲にもがいていた。
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