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理由はいらない。ただ愛されたい。
横浜駅のホームに立つと高層ビル群の明かりが一層近くに見えた。
小さな白い月に負けないようにと赤、黄、白、緑、橙など数え切れない色彩のきらびやかな明かりが鈍色に暮れた空を照らしている。
ついこの間までは橙がよく目に付いたのに今日ここにいると赤色が一番見えるのは、次に控えているイベントがクリスマスだからだろう。赤い光がとても目に染みるから、私は目を伏せる。
別れよう。俺たちはもう終わったんだ。付き合って三ヶ月と十二日目になる彼氏の田崎から電話があったのは昼休み前のことだった。
不機嫌そうに向こうがのたまってくるので、なんでどうして、別れたくない、会って話したい、と私が訴えると、じゃあ今度そのうちなんて電話を切られてしまった。メッセージを送ってみると既読無視が続いて、十回目のメッセージに対してようやく「連絡するから待って」と返信が来たのだった。
上空に流れる銀河のような高層ビルの明かりは、クリスマスを、もっと言えばクリスマスを楽しむ恋人たちや家族たちを迎えるためにある。そう思えて仕方がない。自分は街に爪弾きにされたようだ。存在が間違っているような、世間様から見て真っ当でないような。
アナウンスとともに乗るべき電車がやってきて、クリスマスのきらめきを一時とはいえ押さえ込む。
帰宅ラッシュより少し前の時間だからか座席はどこに座ろうか選べる程度に空席があって、車両端の席に私は座った。一番近くに貼られた車内の広告は最近流行りのストレッチ本の宣伝で、季節もへったくれもないそれに少し救われる。
目を閉じて、電車に揺られながら、私は思案する。別れを告げられた。私の何が悪かったのか? 答えは途方もない種々の中から拾わなければならないみたいだ。
何故彼を不機嫌にしてしまったのか? 彼が通う他大学のキャンパスまでお弁当を届けたこと? お弁当届けた上で一緒にその場で食べるのを慣例化したこと? 家に上がって掃除と料理をしていたこと? 電車が目的地にもうすぐ着くとアナウンスを流す。
あるいは、行動ではなく話の内容がよくなかったのかもしれない。最近どういう話をしただろう。クリスマスライトアップを見に都心まで行こうとか、冬休みの旅行先は伊豆とか熱海とか温泉がいいなとか、私の大学の愚痴とか。そんな話をしていた気がする。
そうなるともう、私の存在そのものが彼を不快にさせるためにあったとしか言いようがない。顔かたちもメイクも服もピアスも、私を好きになってほしくて、頑張って彼が好きと言っていた甘めのテイストを研究したのに。もう不要になってしまった。今日身につけた小ぶりのピアスやツイードのミニスカートは帰ったら捨てよう。
やっと目的地の最寄り駅に着き、改札を出て私は高層マンションへと続く陸橋を渡っていく。横浜駅ほどではないものの、商業施設と住宅街を兼ね備えるこの界隈は賑やかだし、漏れなくクリスマスに染まっている。
スマホの画面をオンにして、私はメッセージアプリのトーク一覧から原野 泰星を探す。泰星の上段に、妹からの連絡が未読のままなのに気がついた。内容が何であろうが今の自分に関係ないので、無視して泰星とのトーク画面を開く。駅に着きました、もう少し待って。送信。スマホをしまう。
ショッピングモールの外壁につけられた大きなアナログ時計が十七時半を指している。私は、高校生くらいのカップルや若い親子連れがモールに吸い込まれていく、その流れにしばし乗って真っ直ぐ進んでエスカレーターに乗る。登り切ったところで右に曲がり人波を抜けて、高層マンションの表玄関に入った。
白い大理石の床に、ガラス張りの壁。壁越しに見えるエントランスホールには、花瓶に生けられた薄ピンクのユリと、ふかふかして座り心地の良いベルベットのソファー、奥には屋根の閉じられた木目調のグランドピアノがある。音楽の授業で聞いたことのあるクラシック曲が静かに、だけれど確実にこの空間を引き立てている。何度来てもこの格調高そうな演出には慣れない。憧れはある。
インターホンのキーを二、〇、〇、八、最後に呼び出しボタンを押し一歩下がって待つ。
『はい』
「こんばんは。菅谷です」
『あ、お疲れさまです』
スピーカーから軽く柔らかな声が聞こえてくる。自動ドアが開いて、私はエントランスからエレベーターホールに入る。
ちょうど上階行きのエレベーターが待機していた。赤と金のリボンで飾り付けられたクリスマスツリーの前を通り過ぎ、エレベーターに乗り込んで、二十階を選択。
エレベーターが動いている間にふと考える。もし、こういう家に住めるような家格と財力が私にあればふられなかったのかな。甘え、甘やかす。自分より遥か遠くにある現実相手にたらればを言っている自覚はさすがにある。エレベーターが止まり、扉が静かに開いた。
左に進む。ホテルみたいな大理石の廊下の、右手二つ目の部屋が目的地の原野家。一呼吸置いて、ドアホンを押す。付いているカメラににこりと笑いかけながら。
「ごめんね、もう少し早く学校出てくる予定だったんだけど」
玄関先で声を落としながら私が言うと、
「忙しいところ今日は無理言って来てもらっているんですから、気にしないでください。お疲れさまです」
出迎えてくれた泰星は朗らかな笑みを見せ私を迎え入れた。私と同じくらいしかない背丈の彼について歩く。
「今日は昼間も外寒かったねぇ」
「ですね。体育の時間寒すぎて、やっぱり冬になったんだなあって思いました。ろくに動けてなかったからかもしれませんけど」
あはは、と声を出す泰星。明るいリビングに通され、私たちはテーブルの角を挟んで向かい合うようにして座る。
「今日の科目は数学で合ってるよね?」
「はい。そうだ、みちるさん。これ見てほしいんですけど」
泰星が椅子下のカバンから取り出したノートを開き、四つ折りにされた紙を手渡した。受け取って開くとそれは先週あった中間テストの、英語の解答用紙で。
「九十七点。最高点数じゃない? すごい!」
「そうなんですよ。みちるさんが教えてくれているおかげですね、ありがとうございます」
控えめに、けれど嬉しそうに泰星は頬を緩める。私も、彼の家庭教師を務めている身としては成績が良くて、生徒自身が喜んでいる姿を見られるのは純粋に嬉しい。
頑張ったご褒美でも与えるべきだろうか。それは何にしようか。考えてもやっぱり導き出された答えはいつも通りで、乾いた笑みを私は内心浮かべる。「泰星くん」彼の名前を呼びながら席を立って彼の横に座った。
「よく出来ました」
唇が軽く触れ合うようなキス。泰星のさらりとした前髪が私の額をくすぐった。瞼を開けると泰星の黒い瞳が静かに私を見つめている。
「みちるさんは悪い大人ですね」
照れるでも怒るでもなく、しょうがない人だなぁみたいな態度を覗かせつつ、落ち着いたテノールボイスで泰星は言った。問題集を自室に置いてきたみたいなので取ってきますね、と、泰星はリビングから出て行く。
中学生という年のわりに老成した子どもだと思う。思春期を迎えたにしては小柄で華奢なままの体格に、物柔らかな物腰はアンバランスで、なんだか面白い。泰星のことは好きとか、異性として見ているとか、そんなことは全くないのだけど。ちょうどいいところにいるから、というだけ。
悪い大人だと言うけれど、悪いことを許容しているのは泰星自身に他ならない。私はただ、少しの罪悪感とそれを包み隠す慈愛でもって彼に接しているだけ。──いや、慈愛ではないな。あるのは嫉妬と、哀れみと、加虐心。どんなにませてみたところで所詮子どもでしかなくて、子どもなのに大人ぶるところとか、本当、反吐が出る。
そういえば、クリスマスに彼を連れ出すというのはありなのか? いや、それはさすがにない。クリスマスという重要な恋愛イベントに泰星を連れ出すことはない。さすがにそこまでの憐憫の情は持ち合わせていない。
カーテンが開いたままの窓からは下界が小さく見えた。窓の側に寄って電車や車の行き交う光や家々が放つ明かりをしばし眺めたのち、私はカーテンを閉める。
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