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バイト帰りの俺に女は声をかけた。
「私のこと、覚えてる?」
お前のことなんて知らない。それなのに俺は衝撃のあまり動けなかった。女の顔を凝視したまま固まる。
笑顔で話しかけてきた女の顔が徐々に真顔へと変わっていく。女は頭から順に足先へ視線を動かし、そのまま顔を俯けた。
「タカスギ君、だよね……?」
女は俺の知らない男の名前を口にした。俺は黙っている。
「違い、ますか……?」
女の目を見たまま俺は微動だにしない。この時はもう目の前の女のことなど念頭になかった。女の顔を見ていながら、俺は別の女のことを考えている。
“セリナ“の記憶が洪水のように溢れ出す。
何度も忘れようと頭の奥に押し込んだ顔が、目の前の女の顔に重なるようにして浮かび上がる。ホクロの位置や眉毛の形は違うのに、セリナの雰囲気を纏った女が俺の前にいる。
黙ったままの俺のことを不気味に思ったのか、人違いに気づいたのか、女は「ごめんなさい……」と言って立ち去った。
流れる人混みの中で俺だけがその場に立ち止まり、窮屈そうに身体を半身にしながら通り過ぎた男が俺を睨んだ。排水溝に絡み付いた髪の毛のように、俺は人流を滞らせている。それでも身体は動かない。
「セリナ……」
俺は一年前に捨てた女の名前を呟く。
部屋を出て行こうとする俺の手を掴んで、セリナは泣きじゃくっていた。嫌だと連呼しながらTシャツや袖を引っ張る。俺は服が伸びることを心配し、セリナの耳に付いたピアスやブランドものの財布の値段を計算していた。こいつに費やした金の総額はいくらになるか考えながら、耳障りな泣き声を意識から退ける。
泣き疲れたセリナがトイレに立ったタイミングで俺は部屋を出て行った。未練も罪悪感もなく、小雨が降っていることのほうが気がかりだった。
そして、それ以来彼女に会うことはなかった。
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