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「ねぇ先輩、僕のこと覚えてます?」
逆に何をどうしたら忘れられるのか、お伺いしたい。俺は額に青筋を浮かべながら目の前の男を見上げた。
相変わらず、狐にしか喩えられないような顔だ。細い目を弓なりにして、口角は大きく持ち上げられている。一年前は黒かった髪が黄色くなったことで、余計に狐っぽさが増した。こんな胡散臭い男を妄信的に好きだった一年前の自分を縊り殺したい。
「まだ絵書いてるんですね。おかげですぐ見つけられたけど」
美術部と書かれた卓上パネルをコンコン叩く指先は、薄い青に塗られている。首から下がる裸婦像のネックレスも、左耳を彩るいくつもの目玉のピアスも、全く趣味が理解できない。最も、ファッションだけでなくこの男が理解できたことなんて一度もないけれど。
「先輩。今ちょっと話せます?」
「話せるように見えるのか、これが」
ようやく発した声は低くかすれている。十数分前、美術部のブースに座る前に水分補給はしたはずなのに、喉の奥がカラカラだった。
「見えますけど。どうせ誰も来ないでしょ」
下瞼を持ち上げて笑う顔が腹立たしい。部活動勧誘会が開催されている大学の大ホールは、新入生五百余名と、彼らを自サークルに入れたい在校生でごった返している。ちょっとした混乱とも呼べるその賑わいの中にあって、美術部のブースの前は開場からずっと閑古鳥が鳴いていた。それもそうだ、現在美術部の部員は俺を含めて三人しかいない。新入生にも期待などしていなかった。
「何にせよ、お前と話すことなんかねーよ」
パネルに置いたままだった手を叩き落とそうとした、その手を掴まれる。引き抜こうとするが力が強い。いや、俺が弱いのか。
「先輩にはなくても僕にはあるんですよ。それとも、ここで話してもいいんですか?」
青色の爪が手の甲に食い込んでくる。痛みに眉をしかめながら舌打ちをした。この男は知る由もないが、隣の軽音サークルのブースで新入生にビラを渡している男は同じゼミの顔見知りだ。分が悪すぎる。溜息をついて立ち上がった。
卓上パネルをひっくり返す。他の部員に席を離れる旨を連絡して、大ホールを後にした。その後ろを、男が上機嫌でついてくる。高村リクト。ちょうど一年と少し前に、俺の恋人だった男だった。
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