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美術部の部室という名目で借りている教室は講義棟の中にあり、春休み中の今はひっそりと静まり返っている。俺だってじゃんけんで負けて部活動勧誘の代表になんかならなければ、今日は登校していないはずだった。
「改めて、久しぶりだね。先輩」
そんな静かな空間に、リクトの声はよく響く。ねっとりした喋り方の割に透明感のある声。一年前の俺は、この声で名前を呼ばれるのが好きだった。
「……同じ大学に来るなんて思わなかったが」
「また後輩になれて嬉しいです」
まさか俺を追ってきたのでは――なんて考えがよぎるのは一瞬だ。この男が俺にそこまで執着しているはずもない。そのことは自分自身が一番よく分かっていた。
机の上に、クロッキーの紙が何枚も出しっぱなしになっていることに気づいて何となく片付ける。この男に自分の書いた絵を見られたくなかった。だが最後の一枚を拾い上げたのは俺の手ではない。リクトは俺が自分の手を書いたクロッキーをしげしげと眺めて、ふふ、と吐息を漏らした。笑った、のだろうか。いつも顔が笑んでいるのでよく分からない。
「好きだなぁ、先輩の絵」
「……それは俺が書いたやつじゃない」
「嘘ついても分かりますよ。ここの爪の生え際とか、手首の骨の強調の仕方とか。先輩のタッチだ」
俺の引いた鉛筆の線をなぞる目線と指先が気持ち悪い。絵なんて自分は一切書かないくせに、なぜそんなことが分かるのだろう。
「で、話ってなんだよ」
「分かるでしょ?」
紙を机に戻し、リクトが一歩近づいてくる。俺は一歩下がる。机を六つ並べたらギュウギュウの狭い教室、すぐに壁に背中が当たる。
「先輩。僕のこと、まだ好きですよね?」
また一歩距離を詰められると、ふたりの間には一歩分の距離しかない。
「好きなわけねーだろ。ふざけんな」
肩を押すが、リクトは一歩も下がらない。いくら絵ばかり書いているとはいえ、こんなに俺は非力だったろうか。
「嘘つかなくていいですよ」
逆に、肩を掴まれる。ずいっと顔を寄せられて、リクトのペンダントが俺の胸にぶつかった。やたらと重い。
「目が言ってるよ、僕のこと好きだって」
「言ってない」
「一年も待たせてごめんね。これからはまた傍にいるから」
頬に小さくキスをされる。ぶら下げたままだった手首を掴まれる。体が密着して、上手く動けない。避けることも跳ね除けることもできず、ただただ身を捩らせた。
「っざけ……どっちから離れていったと思って……」
「先輩でしょ?」
「は?」
本気で言っているのか?
自分の耳の次に、目の前の男の正気と記憶を疑った。
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