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『卒業なんだから別れるに決まってるでしょ』
一年と少し前。遠距離になってしまうのが寂しいと言った俺に対して、当時恋人だった高校二年生のリクトが放った言葉だった。
学年も部活も異なる、本来ならば何の接点もない後輩だった。文化祭の実行委員で一緒になって、ポスターに書いた俺の絵が好きだと言ってくれた。先に好きになったのは俺だったけれど、付き合おうと言ってきてたのは向こうからで。
もうどうしようもないほど好きだった。俺の名前を呼ぶ声の粘っこい響きも。内向的な俺を引っ張ってくれる強引さも。俺の絵を見るときの柔らかい目も。色々なところに遊びに行った。毎日たくさん一緒にいた。はじめてのキスもリクトにあげた。まだどちらも高校生だったからそういうことには発展しなかったけれど、童貞だって処女だって、求められればリクトに差し出すつもりだった。
なのに、俺の卒業式を間近に控えたあの日。
『遠距離とか僕はできないよ。好きな人のそばにいられないとか無理。卒業なんだから別れるに決まってるでしょ』
向こうは俺ほど本気じゃなかったのだということを思い知らされた。とりあえず手近にいるから。他に相手もいないから。彼がそんな温度でこれまで接してきていたのだと思うと、悔しくて、そして妄信的だった自分が恥ずかしくてたまらなくなった。
なのに気の弱い俺はリクトを罵ることも殴ることも、彼に追いすがることもできなくて、黙って泣いてその場を逃げた。それから一年、今更何を言われているのかが全く分からない。
「僕を置いて卒業していったのは先輩じゃないですか。寂しかったんですよ、この一年」
狐を思わせる顔がゆっくり降りてくる。キスされる――。咄嗟に右の手のひらでガードすれば、その手のひらをべろりと舐め上げられた。背筋や首筋に一気に鳥肌が立つ。
「でもこれでまた一緒にいられるよ。少なくとも三年間は」
だからまた付き合いましょ?
言われた言葉が意味不明すぎて眩暈がする。四月にしては随分暑い日だったはずなのに、寒気が止まらない。息がしづらくて、胸が苦しくて、自分がどうなってしまったのか、もうわけが分からなかった。
裸婦像のネックレスも、目玉のピアスも、青いネイルも、遠距離が嫌だから別れようと言った相手に遠距離じゃなくなったからまた付き合おうと言える身勝手さも。リクトは価値観がぶっ飛びすぎている。何ひとつ理解できないし、理解しようとも思えない。
こんな相手に振り回されている自分の情緒が情けない。お前にはついていけないと一喝して、何なら一発ぶん殴って、この場を終わりにすればいい。なのにそれができないのは、俺の気が弱いから? 本当に、それだけと言い切れるのだろうか。
「俺はまだ先輩のこと好きだよ。あ、前みたいにヒカルって呼んだほうがいい?」
俺の首筋をなぞり落ちるリクトの指先はクロッキーの鉛筆で汚れていて、鎖骨の下あたりに薄黒い線を引く。
「ヒカル先輩。ヒカルくん、好きだよ」
粘度の高い声に酔いそうになる。抑えられているのは右の肩と左手だけなのに、身動きが取れない。顔の前にかかげたままだった手の親指を甘噛みされて、変な声が出てしまう。
「ヒカルくんも、ヒカルくんの絵も好き。暗くて、繊細で、神経質そうで、そんで、すっごくえっち」
首筋をなぞっていた指が、今度はTシャツの上から胸をまさぐる。上がっていく息が馬鹿みたいだ。
気持ちと体がバラバラで泣きたくなる。リクトと一緒にいても絶対にいいことなんてない。また三年後には捨てられるのだ。もしくは、向こうが飽きるほうが早いかもしれない。未来が描けない相手と一緒にいてもつらいだけだ。傷つくだけ傷ついて、後には何も残らない。
それが分かっているのに、どうしようもなく根本的な部分でリクトを好きな自分がいつまでも死んでくれない。こんな奴と関わってはいけないと叫ぶ物分かりのいい自分を、リクトとまた一緒にいられるのだと歓ぶ馬鹿な自分が邪魔している。
一番理解できないのはリクトのことじゃない。絶対不幸になる選択肢を捨てきれない、馬鹿でどうしようもない自分。
「もうお互い高校生のガキじゃないんだから、色々解禁でいいよね?」
服の中に入ってくる手も、身勝手で理解不能なことばかり嘯く口も、何ひとつ止めることができない。こんなの絶対によくないって分かっているのに。体が重い。足元からずぶずぶと泥沼に浸かっていくみたいだ。
最後の砦、顔の前の右手をやんわりと取り除けられて、俺を守るものは何もなくなった。
「……最低」
何に対して放ったのか分からないその言葉は、春の乾いた空気の中、静寂に吸い込まれて死んでいった。
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