ベランダと白い君

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「ねえ、覚えてる?」  長い瞬きの合間、懐かしい声が頭の中で僕にそう問いかけてきた。  この幻聴は、昨日眠らなかったのが原因だろう。これ以上目を瞑っていると更に都合の悪いことを訊かれそうで、僕はなんとなく運転席の方に目をやった。  タクシーのメーターが気にならないのは初めてで、なんだか自分の感性がまるっきり違うものになったような錯覚を覚える。  この窓の外は焼けるように暑い。  いつかの僕たちはその炎天下の中を歩くことすらも心の底から楽しんでいられた、なんて過去の事実が、今の僕には半分空想めいたものに思えた。元々の性分からすれば、そんなことはありえないのだ。事実、彼女がいなくなってから、僕は夏が嫌いなのだから。 「本当にこの先でいいんです? 今年はほら、感染症騒ぎで遊泳禁止らしいですけど」  運転手が口を開く。 「いいんです。別に泳ぎに行くわけではないので」 「そうなんですね。まあとにかく、水分補給はしっかりしてください。今日はもう一段階暑くなるらしいですから」  僕が何も返さないでいると、運転手の話はそこで終わった。静寂と車内の揺れが、空虚な気分を加速させた。けれど、今はそれが心地いい。  全てがどうでもいい夏だった。 「着きましたよ、じゃあ、お大事に」  三千円と少しほど走ったタクシーは、来た道を再び帰っていった。  太陽の光は僕を捉えて離さない。このままでは海どころじゃなく溶けてしまう。急いで近くにあったコンビニに逃げ込むと、今度は気温差で倒れそうになる。店内の気温は涼しいを通り越して寒いくらいだった。  飲み物でも買おうか、ふとそう思うのは、酷暑のせいか、それともあの初老の運転手のせいか。多分、両方のせいだ。  水を買いに店の奥へ歩くと、途中で雑誌を立ち読みしている女性がいた。彼女のすぐ目の前には、『ただいま雑誌類の立ち読みを遠慮させていただいております』という注意書きが張り出されている。それは別にどうでもいいが、通行の邪魔になっている。僕は彼女の背後を静かにゆっくりと通り過ぎて、一番安い水を持ってからレジへ向かった。  レジを通したペットボトルを握りしめて、僕は再び猛暑に晒される。こんな思いまでして、一体何をしに来たのだろう。そんなことを自分で思ってしまう辺りが、僕のつまらなさをよく表している。  水を一口飲んで、車道の向こう、ただそこにあるだけの海を見た。いつか彼女と一緒に眺めた、あの夏の気配がした。
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