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「明日は母の日だな。神几は何かすんのか?」
開口一番そう告げた庵野に怪訝な顔を返したのは琉唯だ。
「そうか明日がそうだったか」
「お前……親御さん泣いてるぞ」
「別に。あの人はタフだから祝われても逆に切れる」
それもそうだった。
琉唯の母はといえば、亡き父が愛したシンガポールで暮らしたいと、息子である琉唯を平気で日本に置き去りにするような人間だ。
「せめて自分の親をあの人なんて言うのはよせ」
「庵野は何かするのか?」
「たまにはフレンチレストランに連れてってやろうと思ってな。うちの親、そろそろ固い物が食べにくくなってきたからなぁ」
「ご立派な事だ」
調査済みの依頼書を纏める片手間、庵野の話を聞いていた琉唯は、可でもなく不可でもない相槌を打つ。それが気に入らなかったのだろうか。
「たまには真剣に向き合ったらどうだ。死んじまったら会えなくなるんだぞ」
「……なら父の日には死ぬしかないな」
「悪い。今のは言い過ぎた。けどよぉ誰かに感謝するのも悪くないと思うぞ」
「そんなキャラじゃない。悪いが庵野がいると仕事が捗らない。今日は帰ってくれないか」
「へいへい。お邪魔虫は退散しますよ」
ジト目で琉唯を睨みつけていた庵野だが、効果なしと悟ったのか大人しく退散する。
琉唯はと言えば完全に消え去った庵野の気配に、徐にペンを置いた。
回転椅子にぐったりと背を預け、テーブルの写真立てへと視線を落とす。
意思があって伏せられたそれを手に取り、ため息をつく。
父が死んでからもう三年になる。
死因は呆気ない交通事故で。
せめてもの救いは即死だったこと。
「言っときますけど別に庵野に感化されたわけじゃないですからね」
世界でもう二人きりの家族になってしまったからだ、と自分に言い訳をして琉唯はコートの袖に腕を通した。
ピンク、ピンク、ピンク。
街は何処も母の寛大さを謳っており、この時ばかりは世の女性達がより一層輝いて見える。琉唯には全くもって縁遠い雰囲気だ。
そもそもあの人の、真琴の好きな物など知らない。
シンガポールに毒され味覚まで変わってしまっているだろうし。
強いて言えば琉唯に似ているという理由から猫が好きだったくらいだろう。
だからと言ってシンガポールに猫を突き付けるわけにはいかないし、今からでは母の日自体には間に合わない。
在庫処分かと思わせるほど、母の日と関連付けられた雑貨の一部を眺める。
やはりどれもしっくりこない。
そもそも国外にいたのでは何にしろ後手すぎる。
(やっぱりらしくない事はするべきじゃなかったな)
普通とはかけ離れた家族なのだから、普通など当て嵌まらない。
そう琉唯が踵を返そうとした時だった。
「誰かぁそこの猫ちゃんを捕まえてくださーい!」
という声が辺りに響いた。
声の主につられて視線を下ろすと丁度、琉唯の足元に一匹のぶち猫がいた。
人慣れしているのか逃げる素振りは無く、琉唯に寄り添う。
「有難うございました。本当に助かります。お店の猫ちゃんが逃げ出して困ってたんです」
「いえ、お気になさらず」
「いえいえいえ! お店ここから近いんでよかったらどうぞ。たっぷりサービスしますから! 猫ちゃん達が。それじゃ!」
慌ただしい乱入者を見送った琉唯は、ふむと頷く。
「猫か……成程。その手があったか」
例の猫カフェは現場からほどなくして在った。
扉からして猫耳をあしらったとても女性向けの店だ。
琉唯の足取りは重かったが引き返すわけにもいかなかった。
「いらっしゃいませー!あ、さっきのお兄さんじゃないですか。猫お好きだったんですね」
「写真を撮りたいんだが」
「そんなに好きなんですか! 猫好きに悪い人はいないんで安くしときますね!」
アルコール消毒を済ませ、ワンドリンクを注文する。
そうして通された室内には猫が十匹ほど鎮座していた。
どれも大人しい子ばかりで琉唯が近づいても逃げなかった。
徐に琉唯はカメラを構える。
だが見慣れない機械に警戒しているのか、猫が遠ざかってしまう。
悪戦している琉唯を見かねたか、失礼しますねと店員がカメラを奪う。
「は―い撮りますよ。ほら笑って!」
店員の勢いに押されつつも指示に従う。
ぎこちなくはなかっただろうか。カメラに写されるのは何年振りだろう。
膝の上に乗った猫を撫でながら琉唯の心は自然と癒されていた。
かと思いきや。
今度は携帯片手に悩む琉唯を不審に思ったのだろう。
「上手く撮れたと思ったんですけどダメでした?」
「いえそういうわけではなくて。母にメールを送ろうかと思うんですけど……」
「そうだったんですね! 何でも良いと思いますよ。自分の言葉なら」
「それが一番難しいんですよね……有難う御座います」
何度も書いては消して、書いては消しての空白のメール画面を睨む。
いつの間にか琉唯の周りには猫が溢れていた。
一度しかないチャンスだからこそ失敗は許されない。
そう意を決した琉唯は八文字を打ち込み、送信する。
だが安堵したのも束の間。
返ってきたのはメールではなくけたたましい電話で。
嫌な予感に苛まれながらも琉唯は渋々着信に答えるのだった。
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