間の山の庄助

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間の山の庄助

 白み始めた曇天を眺め、庄助は、(雨かぁ)と口を尖らせた。  三月とは言え早朝はまだ冷える。川辺にいればなおさらだ。  庄助の眼前をゆったりと流れるは五十鈴川。伊勢参宮に向かう者が必ず渡るこの川は、古(いにしえ)から禊ぎの川として有名だ。  ぱしゃり、と跳ねた水音に目を向ければ、小さな童が威勢良く川に駆け込んでいく。 (太兵か。朝一の功名を挙げようってわけやな)  口の端を上げた庄助は、かたり、かたりと音を立てる橋を見上げた。 「やてかんせ。ほうらんせ」静かな朝の禊ぎ場に、甲高い童の声が響き渡る。 (けど、ちと早すぎる。参宮者はまだ夢の中やで)  一生に一度はお伊勢参り。誰もが焦がれる伊勢参宮に華を添える名物は数あれど、参宮者の目を楽しませる技を持つは芸人ばかり。庄助は間の山の芸人である。  参宮者の投げる銭を漏らさず受ける宇治橋の網受けは童芸の一つ。長い棒の先に張った網を巧みに使い、技と愛嬌を以て銭を拾う。網受け歴五年の庄助は既に古参の手練れだ。童芸網受けは十五となればお役御免。間の山の芸人は年齢ごとに芸を替える。 「やてかんせ、ほうらんせ」  長い棒の先に張った網が、ふらふらと揺れる。太兵はまだ網受けに加えられて日が浅い。 (倒すなよ。網が濡れたら重うなる)  受けた銭を漏らさぬよう網の目は細かい。また、投げつける輩に備え、補強する網は重い。棒の先に括り、自在に振るには鍛錬が必要だ。  こぞって網受けの訓練を受ける間の山の男童の内、網受けの親方、権造の目に留まった者だけで編成される網受け衆は間の山男童の花形だ。   案の定、体の小さい太兵は網の重さに負けた。「あっ」と声を上げて尻をつく。盛大に水しぶきを上げた網は、太兵の細い腕先で釣り竿のように撓っている。 (七つの太兵にはまだ無理なんとちゃう?)  日々、様々な鍛錬を繰り返す芸人の子は一年ごとに逞しく成長する。小柄な太兵もあと二年もすれば網の重さに堪えられる体つきとなるはずだ。濡れた網の重みに堪えられぬでは梅雨には商売上がったりだ。参宮者は雨が降ろうが、雪が降ろうが訪れる。  ぶるっ、と大きく身震いした太兵の手から棒が滑り落ちた。川の流れに載る網棒を追う太兵の動きはぎこちない。寒さに身がかじかんでいるか。橋の上に人影が見えた。 (しゃあないな)一つ息を吐いた庄助は、手にした網棒を釣り竿の如く片手でひゅん、と投げ打った。水を含んだ二本の網棒に僅かに顔を顰め思い切り棒を振り上げる。太兵の網棒が天高く舞った。 眼前に突き立った網棒に太兵は目を剥き、すぐさま「おおきにっ」と声を張り上げた。橋の上を行く影が立ち止まり、橋下を覗き込んだ。 「何や、間の山の庄助やないか」つまらなそうに背を向けた男は金屋大夫の殿原だ。客を連れていない様は、伊勢講集めの帰りか。大きな荷を背負っている。 「ほれ、ちゃんと人を見て仕事せいや。御師に芸売ったところで、なんぼにもならんで。だいたい、伊勢講の客はまだ夢ん中や。早朝に橋を渡るもんは神職か、屋敷に帰る御師くらいのもんや。網受けは伊勢講の客に合わせて始めるんが倣いや。御師らは客を煽ってくれる。んで、それをみたもんらがまた、銭を投げる寸法や」  五十鈴川を渡す宇治橋では、参宮者は銭を撒いて禊ぎをする。罪障を祓い浄める作法、散米に倣ったものだ。  穢れを載せた銭を撒き、拾う者に厄災、穢れを持ち去ってもらう目的で行われる撒銭だが、伊勢では間の山芸人がその役割を引き受ける。古から伊勢にある芸人一族は、伊勢の穢れ一切を引き受け、伊勢の清浄を支えてきた。 「ええか、ただ網広げて突っ立っとっては銭は拾えん。参宮者かてどうせ銭投げるなら、面白いほうに投げる。実入りが欲しければ自分の芸を磨くこっちゃ」  拝田、牛谷に別れ住む間の山の芸人だが、両者は出自が違うとして互いに一線を引いている。庄助と太兵は拝田村の住人だ。  物心つく頃から様々な芸を身につける間の山芸人は、自らの口は自らで凌ぐが倣いだ。  稼ぎが悪いは芸のない証拠。芸人村は無能者に情けは掛けん。村を追い出された者に行く当てはなく、ただの物乞いと落ちぶれるより道はない。伊勢の町に乞食は多い。 「わかっとるんやけど。皆が出張ればわいの出番はのうなる。昨日もおとついも権造さんにどやされたんや。なにしぃ網受けに出とるんやと。そやから皆が出る前に少しでも稼がんと……」  お伊勢さんが参宮者に便宜を図る間の山の稼ぎは天候に左右される。人気を集めるお杉お玉の興行と網受けだけが天候に左右されずに銭が入る。二つの興行が童らの憧れである由縁だ。  ぽつりと大粒の雨が頬を打って、太兵が頭を振って項垂れた。 「へぇ。ほんまです。皆様には特別な祓いを用意しましたんや」 「こんな早朝にですか? 皆様まだお休みであられますよ。おまけに空模様も妖しくなって来た。あたしらは旦那様の代参なんです。不備があっては旦那様に申し訳が立ちません」 「お任せ下さい。伊勢の若松の特別な祓いでっせ、罪穢れ一切を祓うてくれます」  橋を渡ってくる賑やかな足音に、庄助は(やれ来たか)と網を振り上げた。 「ふれやふれやちはやふる、神のおにわのあさ浄め、それ、旦那さん、やてかんせほうらんせ」  声を張った庄助の合図に、太兵が岸辺の大籠の脇に控えた。阿吽の呼吸は芸人の倣いだ。 「伊勢の名物網受けでございます」顔を覗かせた岳太郎は釜屋大夫の殿原。本日の興行、お呼ばれの依頼者だ。 「あれが?」いささか怪訝そうなのっぺり顔の後ろから、 「さぁ、撒きましょ」童二人がさっそくに銭を放る。 「あ、これ」「良いじゃありませんか番頭さん、旦那様の言いつけですそれぇ」  勢いよく撒かれた銭はてんでの方向に飛んでいく。  まずは挨拶と、軽く振った棒が色鮮やかな網の花を咲かせ、弧を描いた花がぱくり、と銭を食った。「わぁ」と橋の上の童二人が身を乗り出し、「危ない、危ない」のっぺり顔が童の襟を掴んで引き戻す。 「これは楽しそうだ」にこりと笑ったのっぺり顔の言葉を合図に、銭の雨が降り出した。 「ほれ、与吉、もっと放らんか」 「あれ。もうなくっちまったよ。末松、銭はどうした」  やんややんやの大騒ぎとなった宇治橋にちらほらと人が出始める。そろそろかと橋を見上げた庄助に「さて。皆さんもうよろしかろう」岳太郎の声が届いた。  ぶん、と振った棒が大きく撓り、一行が目を見張る。空を飛んでいく色鮮やかな花に「あっ」と童が叫んだ。抱えた大籠で太兵が網を受け、にこりと笑って手を挙げる。両の手から飛び立つ鳥に、橋の上から拍手喝采が傾れ落ちた。
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