間の山の庄助

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 飛び込んだ雑木林に庄助は膝を抱えて蹲った。強くなった雨脚はどうせ一時。海を望む伊勢では天候はよく変わる。 「やるじゃぁありませんか」  背後からかかった声に庄助はちっ、と舌打ちした。 「あたし、腹が減ってるんです」容赦なく枝を揺らして近づく声が、せっかく避けた雨水をまき散らす。「あのなぁ」顔を顰めて振り向いた庄助は不本意ながらも息を呑んだ。  派手な番傘をくるくる回し、切れ長の目を細めた長身の男。透けるような白い肌に纏った着物はだらしなく乱れ、一つに束ねた蓬髪もまた乱れて頬に揺れている。細く高い鼻梁に僅かに皺を寄せ、寒椿のように紅い唇をぷうっ、と尖らせればまるで寝起きの童のよう。それでも素間は美しい。  どこにいても何をしていても人目を引く素間には憚りがなく常に我が道を行く。まともな大人なら、寝起きに派手な番傘で公道を歩いたりせんものだ。ちなみに派手な番傘は庄助の大切な商売道具だ。 「あたしの話を聞いてるかい? 庄助、腹が減ったんだ」素間は今一度繰り返して庄助を睨んだ。番傘の動きがぴたりと止まる。咄嗟に庄助は身構えた。 「あたしを誰だとお思いかぇ? 仮にも今をときめく野間万金丹の御曹司だよ。お前の帰りを首をながーくして待っていたというのにお前はちっとも帰って来やしない」  本日、網受け非番の庄助は誰のおかげで早朝のお呼ばれに出向いたか。間の山の興行は朝が遅い。本来ならばまだ、唯一の財産にくるまって惰眠を貪っている時刻だ。 「何ぞあったかと出向いてみれば、お前は愛らしい童に鼻の下を伸ばしてる。あたしの祝儀を根こそぎやっちまうったぁいったいどういう了見だいっ」  まさに歌舞伎者のごとく大見得を切った素間に、庄助は鼻を鳴らした。 「わてほどの人気者になればな、新米に華をくれてやるなど大した話やない。むしろ箔がつくってもんや」  庄助は負けじと間の山一の若衆の誇りをみせてやる。 「余裕だねぇ」横目で睨んだ素間は、  芸の道は厳しいと常の口癖はどうした。童にあがりをくれてやるなんざお前らしくないと、眦を吊り上げた。 「随分とご執心じゃないか。妬きたくもなるってもんさ」 「男童になど執心せんわっ。お前と違うぞっ」と噛み付いた庄助を大量の水しぶきが襲った。 「おや。雨が止んだようだ」番傘を大きく振った素間は、しれっと言って天を見上げた。 「お前にやった祝儀はあたしの犠牲の上に成り立ってるんだ。それを棒に振るなんざぁ許せないんだよっ」 「お前の祝儀やないやろ、岳太郎さんからの依頼や」 「おーや、そうかい」  素間がぽんっ、と木を蹴った。降り落ちる雨水をすかさず傘で受け、庄助に向けて傘を傾ける。雨宿りの意味をなくした庄助はずぶ濡れだ。素間はかなり不機嫌らしい。 「あたしはね、紅丸とうたかたの夢の最中だったんだよ。それをあの野暮な岳太郎が邪魔したんだ。遠慮も何もあったもんじゃない。古市は御師に親切だからね、誰もあたしの所在を隠す者がない」  素間の不機嫌の原因はそこらしい。紅丸は備前屋一の売れ奴だ。  全国を廻り、伊勢講を広めて参宮者を集る御師は伊勢の花形だ。下へも置かぬ御師邸のもてなしが、一生に一度はお伊勢参りと誰もが憧れる由縁となっている。  参宮者から〝お伊勢さん〟と慕われる御師邸の殿原は、巧みな話術で参宮者を煽り、行く先々で散財させる。 〝お伊勢さんの行く先に銭の花が咲く〟  誰もが賞賛するお伊勢さんには気配りを怠らん。古市の楼主もご多分に漏れずだ。 「いくら急だからって、あんまりじゃあないか。紅丸と逢うのにひと月も待ったんだ。あたしゃ暇じゃないんだからね」  野間家の放蕩息子が暇でないとはぶっ魂消だ。 「三日市家から預かった客が勝手を言うと泣きついて来たんだよ。あたしのほうが泣きたい気分さ。紅丸まで御師の味方するんだ」  穢れを恐れる伊勢の住人に、穢所に近づく物好きはいない。参宮者を迎える御師ならばなおのこと。触穢を受ければ物忌みが待っている。 「庄助お前、釜は壊れておらんかぇ? 売った恩は早く回収したほうがいいんだ。此度の依頼が三日市家からならもっと良い見返りが期待できたが……そうさね、あの三日市大夫のことだ、そこらを見越した上での話かもしれない。油断ならん男だ」  ふんっ、と鼻を鳴らす素間も十分油断ならん。  伊勢に多い平御師らは各々に副業を持つ。参宮者の土産に売りつける品で自らが潤えば願ったり叶ったり。御師は根っからの商人だ。  此度のように急な興行には、素間を頼らざるを得ん御師らは、素間には頭が上がらない。よって素間は平然と見返りを要求し、常に新しい品々に囲まれて、意気揚々と放蕩を満喫している。素間だけが禁忌を免れる様を思えば、神職を務める御師家にも恩を売っている可能性もある。素間は伊勢の花形御師を屁とも思わぬ大物の放蕩息子だ。 「とにかく。お前はあたしの祝儀を棒に振った」  話を蒸し返す素間はよほど気に食わんらしい。すっ、と懐に白い指を伸ばした素間に庄助は身構えた。素間の扇は百発百中。俊敏な庄助にして一度も逃れた例はない。素間は放蕩息子にしておくには惜しい男だ。 「腹が減ってるんだよぉ」素間は懐に入れた手を止めて呟いた。 「紅丸には逃げられる、岳太郎には腹が立つ、おまけにお前にまで素気なくされちゃあ……腹が立って当然だろう? 旨い飯が食いたいんだよっ」  懐から飛び出した素間の手を制し、(やったっ)と庄助は口の端を上げる。 「甘いっ!」びしっ、と音を立てた脛に、(卑怯者……)庄助は蹲った。    
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