間の山の庄助

4/401
前へ
/401ページ
次へ
「だから、あたしはこの子と飯を食いに来たんです」 「若旦那、そりゃあ困ります。この子、間の山の子じゃあありませんか」  宇治橋から五十鈴川を伝って街道沿いの店をやり過ごし、路地を入った料理屋の前で素間は女と言い合っている。 大杉の暖簾の前、困惑顔の女は年増だがなかなかの別嬪だ。 「それがなんです。この子はあたしの大切な……」余計な口を叩く素間に、「わてはここで」と身を引く庄助の脛を、素間はすかさず蹴り上げる。寝た子を起こされては庄助に反論の余地はない。  同火は二十一日間の物忌み。それじゃあ商売あがったりと頭を振る女に、腹が減ってるもんに飯を食わせるのが料理屋だろうと素間は一歩も譲らない。  火が穢れを伝える力を持つという認識から、伊勢の住人は穢人と同じ火で焚いた物の飲食を避ける。  穢人のための別火を持つ店はいずれ手頃な値段で飯を食わせる飯屋ばかりだ。品の良い料理屋は一軒もない。 「あたしはね、腹が減ってるんだよ。だから飯を食わしておくれ」 「ですから。若旦那お一人なら」  食い下がる素間に女も負けてはいない。素間を手こずらせる女には庄助の口の端も上がる。いいぞ頑張れと女に肩入れする庄助に、 「この子は特別なんだ」素間は意味深な目を女に向けた。 「それじゃあ……」まじまじと女に見据えられ、庄助は身を縮める。 「間の山の庄助さ」素間の言葉に女の目が泳いだ。「あらまぁ……」興味深げな女の視線に庄助は肩を落とす。色子疑惑は伊勢の町にまで行き渡っているか。 「わかったかい、お熊」素間の言葉に女がつい、と目を逸らせた。「けど……」女が上目使いで庄助を見る。  わては素間の色子やないで――。  言いたくて言えぬ言葉が喉に痞えた。町に出れば穢人は人でなし。余計な口は許されん。 「何しとんや、お熊」がらり、と開いた格子戸に庄助は目を向けた。 「はい。両手に花を愛でております」  お熊と庄助を両腕に抱えた素間がにっ、と笑う。 「こらまた若旦那」目を剥いた大杉の主は、「ようおいで、庄助」とにっこりと笑んだ。         * 「良い稼ぎになりますねぇ。庄助、お前、しばらくあたしと商いしませんか」  畳の匂いも新しい、こぢんまりした奥座敷。素間は膨らんだ巾着を手に紅い唇を綻ばせる。五つあった万金丹は完売、素間は三百文を手に入れすっかり上機嫌。  店を継ぐ気のない素間だが、気まぐれに万金丹を調合する。  伊勢名物万金丹と言えば、そもそもが野間万金丹。野間家の初代が金剛證寺の虚空蔵菩薩様から処方を賜ったものだと言う。跡を継いだ一族が商品化して大人気を得た、有り難い万病薬だ。 ただの腹痛薬だとは素間の言だが、伊勢おしろいと共に人気の土産物となっている。  今は伊勢の町に多く立ち並ぶ万金丹の店は、各々に自店の正当性を主張するが、何と言っても一番は野間万金丹。虚空蔵菩薩様縁の有り難い薬たる触れ込みは大きいだろうが、素間の影響は否めない。素間の気まぐれ万金丹は実に良く効くと評判だ。  薄毛の悩みから精力の衰え、女の月のものの悩みから子供の眼病まで、ありとあらゆる症状に的確に効く素間万金丹は、大いに野間万金丹の名を世間に知らしめている。  ただし、気まぐれな素間万金の発売日は定まらず品数も僅か。よって人々は野間万金丹に度々足を運ぶ。結果、常に行列のできる野間万金丹は、伊勢一番の万金丹店舗として名を馳せている。結構あくどい商法である。  したたかな御師の隠居が、穢れ祓いの万金丹たる訝しげな品に飛びついた理由も、素間万金丹の評判に基づいている。素間はただの放蕩息子ではない。 「在庫はありますか」とすぐさま飛びついた大杉の主もさすがに元御師。他家に先を越されてはならんと、買い占めを申し入れた。 「まったく。御師の商魂は逞しい。皆さん同じことを仰る。あたしは構いませんよ。常の野間万金丹が高値で売れれば親爺様のご機嫌取りにはなる」  しれっ、と言ってのける素間は、ご老人から銭を騙し取るとんでもない悪党だ。  ぽかん、と口を開けた大杉の主は、「嘘なんですか?」と目を剥いた。 「嘘も方便、効くも八卦、効かぬも八卦。何ごとも気の持ちようということです」  素間は適当な言葉を吐いてにこっ、と笑う。 「薬なんて皆、そんなもんですよ。万人に効く薬なんかありゃしない。穢れなんてもんは人の心の中にあるもんです。胃の腑がすっきりしたら、祓えたような気になるもんですよ、庄助、よーく覚えておきなさい」  なるほどその通りですなと、頷いた大杉の主は庄助に非難の目を向けたご隠居らを思っているのだろう。  大杉の主に従って暖簾を潜った庄助に、店先で饂飩を啜るご隠居らは眦を吊り上げた。  別火のない店で穢人に飯を食わせるのかと、いきり立ったご隠居に素間が取り出したのが穢れ祓いの万金丹。  素間の口車に載せられた隠居らは常の万金丹に高い銭を支払い、庄助を黙認したわけだ。 「わかったらさっさとおいで。せっかくの飯が冷めちまう」座敷の端に縮こまる庄助を手招く素間にはちょっと感謝して、 「飯が冷める前にはっきりしようじゃあないか。あたしの祝儀を横流しにした、あの童はいったい何者だっ」  膳についた庄助に素間は容赦なく扇を叩き付ける。素間に騙されてはいかん。 「あらぁ太兵やて。網受けはまだ不慣れやから、わてがちぃと助けたっただけやっ。お前、男やろ、一旦投げた銭にがたがた言うなっ」涙目でがなり立てる庄助に、 「男ですよ。お前が一番良く知ってるじゃあありませんか……」素間は余計な口を叩く。堪忍袋の緒が切れた庄助は箸を掴んで芋に突き立てる。素間の口に押し込んだ箸がぺっ、と吐き出されて庄助の額を突いた。 「この野郎っ」庄助が繰り出した拳が、「結構なお味で」頭を下げた素間の上を通過して、柱を打った。「痛ってーっ」叫んだ庄助の口を素間が塞ぐ。 「賑やかな子だね。ここは料理屋なんだからね、あまり騒ぐと出入り禁止になっちまうよ」  塞いだ手に歯を立てた庄助は、つんと鼻を突き上げた刺激に涙する。わさびは苦手だ。涙を零して素間を睨めば、 「別に泣くこたぁない。よし、あたしが食べさせてやろう」  素早く料理を刺した素間は、身を引いた庄助をこちょっ、とやって大量の料理を押し込んだ。苦しさに再び涙が零れる。こんなに泣ける食事は初めてだ。 「仲がいいんですねぇ」ぽそり、と呟いた主に、 「それはもうこれ以上ないほどに……」  物言えぬ庄助をこれ幸いと素間は勝手な言を吐く。 「噂は本当なんですか」遠慮がちな主に、 「人の口に戸は建てられません」素間は意味深な言葉で返す。 必死に首を横に振った庄助は、食い物が喉に詰まって思わず顎を引いた。 「そうですか」淋しげな笑みを浮かべる大杉の主に、 「あたしがついていれば、庄助の先は安泰です」  にかっ、と笑う素間の横っ面は張り倒してやりたい。大杉の主もまた、庄助の大事なご贔屓だ。きちんと真実を知っておいて欲しい。 「そやな。芸人には色々と苦労があろう。隠居の身の儂にはしてやれることも限られる。若旦那がついていれば怖い物なしや。可愛がってもらいなさい、儂はお前が幸せならそんでええんや」  ちっとも幸せやないぞと思いつつ、慈愛に満ちた目が庄助の胸を熱くする。こんな目で見られた経験は一度もない。くすぐったい思いで口の中の物を飲み下し、「誤解です」とようやく飛び出した庄助の言葉を、 「ご隠居様、幸福大夫様がおみえです」  お熊の溌剌とした声がかき消した。   
/401ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加