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「さて。邪魔者が消えました」
箸を置いた素間の膳はきれいに空になっている。
「美味しかったですね」品良く笑う素間は胃の腑が収まって機嫌が直ったらしい。
「余計な口叩きやがってっ」と噛み付く庄助に、「何の話です?」素間は澄まして湯飲みに手を添えた。
「噂を認めてどないする」と噛みつく庄助に、
「認めてなどいません。あたしは人の口に戸は建てられぬと言ったまで」と素間は涼しい顔でのたまわる。
「庄助、あたしは腹が朽ちたんだ」言われなくとも見ればわかる。
「お前の網受けはもういい」十分遊んだから満足だろう。
「ここはね、料理屋なんだ」騒ぐと出入り禁止になる……。
「だから噂を事実にはできないよ」それが余計な口と言う。
「何で違うと言えんかっ!」
だんっ、と叩いた畳に、素間がぴょんと撥ねた。「あれあれ」呑気な声を上げた素間の手から湯飲みが飛び上がった。目を剥いた庄助の頭に今度は熱い雨が降る。
「わかったっ、もういい。なんや阿呆らしなってきたわ。早う用件に入ってくれんか」
ぽんっ、と投げ出した手拭いから小判が一つ。素間は目を細めて、「よく見つけたねぇ」とぱちぱち手を叩いた。
「わてを馬鹿にしとんのかっ」噛み付く庄助に、
「お前はそんなに賢くないから」素間は庄助の手に小判を握らせる。
「馬鹿にしとるやないかっ」「いいえ。慈しんでいるんです」
庄助に用事を言いつける時、素間は庄助の小屋に小判を置いていく。当人がお宝探しと銘打つ遊びは、既に四年も続いている。
「草鞋に貼り付けてありぁ馬鹿でもわかるわっ。探させるつもりならもっと真剣に隠さんかっ」
初めてのお宝探しは眠っている庄助の額に貼ってあった。その次は粥の中、下帯の間と、常に探さずともわかる場所にある。
「だって。見つけてもらえなきゃ意味ないだろ? 賢くないお前には毎度苦労する」
「だったら、直接言え」
毎日顔を合わせる素間と何故にまどろっこしい真似をせねばならん。
「だからお前は詮が無いと言うんです」
何でもあからさまでは機微がない。毎日顔を合わせるからこそ、密やかな部分は大切だと、素間は庄助を窘める。
二人の間に機微も密やかも必要ないと、庄助は単刀直入に訊ねた。
「んで? わざわざ料理屋なんぞに引っ張り込むってぇことは、いよいよ大事の仕事なんやろうな。お前のお遊びにはもう飽きたぞっ」
素間の用事は実に他愛ない。
○○町の△屋の三男の暮らしぶりを調べてこいとか、□町の長屋でお内儀らの噂話を集めておいでとか。あまりのくだらなさに庄助は一度、不満を申し立てたことがある。
「馬鹿だね。目付衆だって聞き込みができて一人前なんだ」素間はけろりとのたまった。
間の山の住人には、山田奉行所の与力同心の下で、捕縄、十手を持ち、捕り物に関わる目付衆がいる。常は宇治、山田三方会合の監視下にあり、行動を限られる穢人だが捕り物に関してその制限はない。堂々と伊勢各地を飛び回る目付衆は若衆の憧れだ。
とは言え常に捕り物があるはずもなく、犯罪の元となりそうな輩に張り付き、情報を集めるのも目付衆の仕事だ。そんな目付衆の役を請け負うのは牛谷の者であり残念ながら拝田にその役はない。よって素間自らがお奉行となり、庄助に目付衆を命じたわけだ。
報酬があれば付き合うものの、大人の素間にいつまでもごっこ遊びもどうかと庄助は思っている。
「お前はいい年をこいてと、思っているんだろうが。餓鬼の使いにしちゃあお前も薹が立ちすぎだ。お前も随分と役に立つようになったから、いよいよ事件捜査といこうじゃないか」
餓鬼の使いは頂けん。庄助は立派に素間奉行の役に立っている。
くだらん町の情報は素間万金丹の役に立つ。皆が求める売薬には行列が出来る。多少高価でも飛ぶように売れる素間万金丹は野間家の名を世に轟かせている。ある意味素間は立派な跡取りとも言える。だが目付衆に焦がれる正義の人庄助は、悪人(素間)の手先は心苦しい。できれば罰が当たる前に奉行所ごっことは縁を切りたいと思っていたが、事件と聞けば心も動く。人様の役に立てば大神様のお目こぼしもある。
「殺しか? 盗人か? 牛谷のもんを出し抜いたら、奉行所はわてに十手を預けるかもしれんな。拝田の親分なんてええ響きや」興奮を抑え切れん庄助に、
「ほんとにお前は馬鹿だねぇ。お前に捕り物ができるわけなかろう。目付衆にも仕来りがあるのさ。素人が勝手に手出しはできないんだよ」素間は素気なく水を差す。
「けど、これは大事件に繋がるかもしれん調べだよ。牛谷のもんに気付かれぬよう、しっかりおやり」
話は終わりとばかりに素間はさっさと腰を上げた。
「張り合うのかっ」牛谷に恨みはないが、憧れの目付衆と対決となれば心が躍る。庄助が目付衆を出し抜けば、拝田の親分も実現するかもしれん。
「まさか。気付かれんようにといったろ? ことは牛谷の秘密に関わるかもしれんのだよ」
さらり、とのたまって素間は襖に手を当てた。
「牛谷で神隠しがあった。お前、それを調べておいで」
「阿呆、そんなことできるかっ」慌てて素間の袖を引いた庄助を、
「お前の気持ちはわかるけれど。あたしにだって都合があるんだ」素間はそっと押しやった。
すっ、と開いた襖から大杉の主が顔を覗かせる。「もうお帰りか?」
「はい。ですがこの子があたしの袖を離さなくて……」素間の言葉に庄助は頭を抱えた。
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