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光と闇が入り交じる、逢魔ヶ刻は神さんのお散歩の刻。伊勢では常識の忌み刻は、和御魂と荒御魂が出会う時刻でもある。
神域伊勢では、二つの神が出会う時刻には伊勢の住人誰もが外出を控える。間の山の芸人も同じだ。
「坊は姉ちゃんと二人きりか」人気のない逢魔ヶ刻の辻に物憂げな男の声。
「うんっ。母ちゃんが死んじまって今は」応える声は健気な童だ。
「父ちゃんはどうした?」
「いないよそんなの。だから母ちゃんが三味線弾けなくなって、姉ちゃんと二人で稼いでるんだ。でも姉ちゃんの目が見えなくなって……」
拝(太)田村期待の童(兵)に、盲(庄)しいた姉(助)ちゃんの出番はなさそうだ。
「偉いなぁ、坊」「おいらが姉ちゃんを守らなくちゃ」「くーっ、泣けるなぁ」
じゃらじゃらと銭の雨が降って、足早に足音が遠ざかる。
(わての廻りは悪人ばかりか……)
御高祖頭巾の頭を下げ、庄助は薄闇に溶けて行く旅人に手を合わせた。
「一貫文くらいはありそうやな。庄助さん、こんでどないやろ」
蓙に散らばる銭を拾い集める太兵に庄助は顔を顰めた。
「十分や。ええからもうお帰り。じき日が暮れる」
神さんのお散歩に出くわせば……
「神さんに喰われるで」伊勢で神隠しを意味する合い言葉は民人の誉れ。
「庄助さんこそ。別嬪さんは狙われる」
だが人の増えた伊勢では人を喰うは人ばかり。伊勢参りから戻らぬ女子供の数は多い。
神隠しが誉れの伊勢でも、奉行所は犯罪防止に努めねばならん。
御師邸では夕刻に盛大な宴が開かれ、目付衆は手下を従えて夕刻に町へと繰り出す。
――夕刻の外出は控えるべし。
奉行所は神さんへの礼儀を匂わせつつ、犯罪への注意を促すお触れを出している。
仕来りに厳しい拝田村では、夕刻には女衆が童を確認に回る。素間の遊びに付き合う庄助と共に、太兵がいて良いはずはない。
「銭に困っとんやったら、わいに施しなんてせんでええんや」と、本日の稼ぎを差し出す太兵にこそ困りもの。
庄助の女姿は素間の仕事を請け負う時の衣装であり、太兵と物乞い芝居をするための衣装じゃない。
支度を調えこっそりと出てきたつもりが、不覚にも追尾に気付かず物乞い芝居とあいなった。太兵は庄助が稼ぎに出たと勘違いしている。
銭に困ってなどおらん。たまに初心に返るも修行だと庄助の苦しい言い訳に、ならば間の山一若衆の修行を見て帰ると、太兵は返す。
早く太兵を帰したい庄助は、母ちゃんの具合はどうだと太兵の泣き所を突いた。太兵の母、お静は数月前から寝込んでいる。
「素間さんに診てもろた」と笑う太兵に、庄助は頭を抱えた。
店を継ぐ気のない素間を、野間家当主は医者にしようと師をつけている。水庵先生は伊勢で有名な町医者だ。
頭の良い素間は既に医学を身につけ、是非に都で学ぶべきとの水庵先生の勧めを断って銭をもてあます芸人村で医者として活躍中だ。
高価な素間万金丹を手に、素間は祝儀を取り返そうと太兵の家に乗り込んだに違いない。
「精をつけて、薬飲んで、気長に養生すれば良うなるやろうって。薬は続けないかん言うから、わいはもっと働かんと」
(精をつけて養生すれば、誰でも元気にならんか)
だが、薬を続けると気長にが引っかかる。
(良くないのか)
そもそも顔色の悪いお静は太兵が網受け衆に決まって気が緩んだか。ならば太兵は傍にいてやるべきだ。
「お前にもお呼ばれを振ってくれるよう素間に頼んだるから。もうお帰り」と言う庄助に頭を振る太兵は頑なだ。
(弱ったな)庄助は闇が忍び寄る牛谷坂を見遣った。そろそろ本日、庄助が迎える予定の相手が来る頃合いだ。
「あのな、わての修行に童を付き合わせたと知れたら――」大目玉だと言いかけた庄助は、ひたひたと坂を昇る足音に口を閉ざした。夕陽と闇を縫って近づく人影に目を凝らす。「こらあかん」太兵が雑木林に飛び込んだ。
(太兵を巻き込むわけにはいかんわ)
出直そうと御高祖頭巾に手を掛けた庄助は、
「あんた、紫の君やないか?」
目当ての相手のめざとさに舌打ちした。
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