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「行きて帰りし物語」は異世界転移ものの定番だ。わたしはこの世界での何らかの役目を果たしたら、「向こう」に戻されるかもしれない。
……うっ。あー……。
嫌だな。
どうせまたギャンギャン怒鳴られて、キモイって爪弾きにされて、夜道をとぼとぼ歩く、冴えない人生が続く羽目になる訳じゃろ?
それに。
「ルーイ様」
「ヘイ!」
おっと考え事してたからまた変な返事しちゃったよ。
振り返れば、イルがいつの間にか背後にかしこまっている。離れてろとは言ったけど、ケージの姿が変わったから、何か危機感覚えて来てくれたのか。その辺の判断を自分でできるところまで成長したんだな。
「そのネズミは」
「ああ、ネズミではなくてモルモットを見つけたので、わたくしのペットにします。ケージと呼びなさい」
「はい、ケージですね」
イルがケージを見下ろして、まるでわたしの意図をわかっているかのように、いつに無くはっきりと名前を呼ぶ。途端、ケージがモルモットにできうる限りの絶望顔で、「お前ーーーーーッ!!」と、声には出さずにわたしに訴えてきた。
フフン。真名を呼んだらもう逆らえないからね。これでこいつはイルにも手出しできない。
後は何だかんだ言い訳を繕って、父皇帝に鹿はいなくなりましたって言えば良い。念の為、皇帝だけじゃなくて、ヘメラとか、わたしに関わる周囲の人達には、ケージの名前を教えとこう。
わっるいなー! 全力フラグ回避の為とは言え、容赦無いなわたしー!
でも先に手を出してきた悪魔が悪いんじゃよー! 因果応報!!
それにしても。
わたしはいつの間にか隣に並んでいたイルを見上げる。
東方の民だからか、「わたし」とほとんど変わらない身長。だけど、アーリエルーヤが小さいから、少し見上げる形になる。
唇を引き結んだ横顔は相変わらず綺麗で、何を考えてるのかわからない無表情にさえも、ドキドキする。
このときめきも、「向こう」には持って帰れない。
イルは、アーリエルーヤの為に存在するのであって、「わたし」のものじゃない。
あ、痛いな、心臓。
胸が苦しいとかそんな初々しい表現じゃなくて、ダイレクトに心臓に来る。
痛みをおさえるように胸に右手を当てていると、左手に、ひんやりした感触が滑り込んだ。
ん? 左手?
左側にはイルしかいないのですが?
わたしは自分の左手を見下ろして、ぎょっと二度見してしまった。
イルの手が。
わたしの手を、ぎゅっと握り締めている。
はいはいはいなんだなんだどうした!?
今までこんな事、一度こっきりもしてこなかったぞこの子!?
どういう心境の変化だ!?
というか、何の思惑があってやってるんだこれ!?
ヤバイ。顔が近づいた時より確実にヤバイ。鼓動の音が耳の奥でめちゃくちゃ響いてる。イルにも聞こえてないかこれ?
手が冷たい人は心が温かい、とは昔からよく言われた事だけど。イルの手の温度はその低さが心地良くて、火照ったわたしの身体に、清水のように沁み渡ってゆく。
「……すみません」
視線を合わせないまま、彼が言う。
「まだ何かがいるかも知れません。今は、このままで」
「……ええ」
うなずいて、少しだけ、手に力を込める。
「あーもーお前らオレもいるぞー!」と言いたげに、ケージが大の字にひっくり返ったけれど。
今は。今だけは。
アーリエルーヤじゃなくて、わたしの為に、この手を離さないで欲しいと、わたしも願った。
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