123人が本棚に入れています
本棚に追加
/62ページ
「無」
黒髪の貴女はそう俺を呼ぶ。
「お前は『無きもの』だ。名も無く、意志も無く、ただわたくしの命に従い、わたくしに逆らう者を殺しなさい」
白い指が指し示す先には、殺意を発する無数の人影。
反射的に短剣を鞘から抜いて、俺は走り出す。
ルーイ様の敵は、俺の敵。ルーイ様に害を為す者は、片端から斬り捨てる。
だけど、敵の数は本当に底が知れなくて。今まで傷のつかなかった場所を斬りつけられ、返り血以外の血に染まって、地面に倒れ伏す。
「役立たずな男。見込み違いだったか?」
ルーイ様の声で、貴女は嗤笑する。
そして、倒れ込んだ俺に手をかざして、赤い光を零させる。
血が止まる。傷口が塞がる。痛みが引いてゆく。だけどこれは、『光吟士』の力ではない。黒髪の貴女には『光吟士』の力が無い。そのせいで、皇帝陛下に疎まれていたのだから。
「お前は死ぬまで戦い続けなさい。壊れたら、壊れたその姿で戦いなさい」
術を施した貴女の隣には、赤い髪に黒い瞳の男が立っている。そいつは唇を三日月に象って、俺を一瞥した後、ルーイ様に恭しく頭を下げる。
「アーリエルーヤ様。ミナ・トリア国王デュルケンが擁立した『聖女』ニィニナが、間もなくやってまいります」
「わかっている。行くぞ。ナダをここに置いて、我々は深奥で待ち受ける。わたくしに楯突いた事を、とくと後悔させてやらねばな」
ルーイ様。
それは悪魔です。
気づいてください。
そんな奴の力を借りないでください。
俺に、俺だけに、貴女を守る事を命令してください。
伸ばした赤い手は、届かなくて。
その手もこきぽきと耳障りな音を立てて、人でなきものに変貌してゆく。
絶望に塗りたくられて悲鳴をあげたところで。
俺は目覚めて、それが夢だった事をようやく知る。
最初のコメントを投稿しよう!