パスワードの覚え方

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「昔なら、付箋つけて貼ったりしたもんだけどなあ」 「個人情報云々かんぬんで、デスクまわりが厳しくなりましたねえ」 「どっかにメモってねえか」 「引き出しを勝手に開けるのは忍びないなあ」  ぞろぞろと課長の机に集まった。  伏せられたノートパソコンを開けてみても、まっくらなディスプレイがあるだけだ。付箋のひとつも貼られていない。  机の上はどうかといえば、承認待ちのレターボックス、電話機、ペン立て、卓上カレンダーが整然と並んでいるだけで、余計なものは一切ない。 「さすが性格が出てるなー。綺麗なもんだ」 「ピシっとしてますよね、仁科(にしな)課長」 「そのぶん、怖ぇけどな」  仁科(にしな)航平(こうへい)、三十二歳にして課長へ昇進した、若手のホープである。  薄いフレームの眼鏡ごしに見える眼差しは常に鋭く、ついでに口調も鋭い。情け容赦ない追及に、別部署の女性社員が泣いたという噂は後をたたない。  とはいえ果敢に挑む女性も後を絶たず、「あれが、ただしイケメンにかぎる、ってやつか」と、男性社員はやっかみとともに囁いている次第である。  それでいて彼が嫌われていないのは、どんな美人が相手であろうと素っ気なく、あるいはこっぴどく振るからだ。アイドル並に可愛いと評判だった受付嬢が公衆の面前で派手にぶったぎられていたのは、後世に語り継がれると言われている。  なお、当の受付嬢は専務の愛人だったことがバレて修羅場となり、別の意味でも伝説になった。 「名のとおり、公平なんだよ、あれは」と、三課の最年長が言うと、「俺はあのハッキリしたとこ好きだけどな」と、配属時に教育係を請け負った男が言う。  第三課は、課長を含めた五名で構成されており、仲間意識は強いのだ。配属二年目のまだまだ新米の若者は、紅一点に問いかける。 「舟木(ふなき)さんは、仁科課長と同期なんですよね」 「そうだけど?」 「入社したころって、どうだったんですか?」 「あのまんま。昔から変わってないよ、仁科くんは」 「(みなと)ちゃんも、変わんないよね」 「おじさんくさい昔話するより、パスワードは?」 「……現実を思い出させるなよ」  なんとなく盛り上がっていた空気がしぼむ。  舟木女史はクールであるというのも、評判だ。化粧っ気のない顔に、黒髪をシンプルにひとつくくりにしている。  あの(・・)仁科氏の部下ともなれば女性社員の目が厳しくなりそうなものだが、無害として放置されているのは、彼女のクールさゆえである。あれは恋敵にならないというのが、女子の総意らしい。
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