第02話 名前の無い私

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第02話 名前の無い私

 眩しい。  転生して初めて感じたのは光の強さ。 「おぎゃぁ、おぎゃぁ」  私が、泣いてる。これは、ほとんど無意識だった。  それから、体から何か抜けて行くような感覚がある。  明るさは分かるのに、ほとんど何も見えない。  凄く不安だ。  これは、きっと本来は感じない恐怖なんだ。  記憶があるから、見えない事や、今までと違う感覚が怖い。 「―――。――。」  私を抱いている人かな? 何か言ってる感じがする。  でも、耳がふわふわする感じでよく聞き取れない。 「――、――――。」  聞き取り辛いのもあるけど、きっと知らない言葉なんだ。  あれ、今度は突然暖かい。気持ちいい。あ、きっとこれはお湯の中だ。  そっか、さっきの何かが抜けて行くような感覚は、体温が外気に奪われてたんだ。  今まで当たり前だった事なのに、転生したことで、それが真新しい経験として流れ込んでくる。  五感の総てが不明瞭なのは不安だけど、守られているような安心感もある……気がする。 「――、――――。」 「――、――。」  意味は分からないけど、近くで聞こえる声は優しい。なんの根拠も無いけど、そんな気がする。  んー、でも……だめだ、眠い。…………。  ……。 「百合恵さん」  誰かが呼んでる。今度は、はっきり聞き取れてる。 「って、あれ?」  私は、丸テーブルに突っ伏して眠っていたらしい。  体を起こすと、またカウンターがあってラケシスが立っている。 「ごめんなさい、私、寝てしまったみたいで」 「いいえ。こちら側が夢ですよ」  ラケシスの言葉を脳内で繰り返す。  こちら側が夢。つまり夢の中なのに起きた私。とても不思議な気分だ。 「え、あ、じゃぁ、さっきのが現実なんですね」 「ええ。そう言う事に成ります。ちなみに、夢の中でなくてもお会いする事は可能ですが、貴女はまだ赤ん坊なので会話自体が不可能。ですので夢にしました」 「なるほどです……」 「それと、便宜上、百合恵さんとお呼びしてますが、其れは貴女にまだ名前が無いからですので、ご了承ください」 「あ、はい」  ラケシスに見つめられると、私は自然と背筋が伸びる。  それから、ラケシスはカウンターから、テーブルを挟んで私の前に立った。 「では、本題です。これから貴女は、ある問題に直面します」 「問題……ですか?」 「ええ。貴女は今、17歳の精神構造を持っています。それが、徐々に体に引っ張られ、いわゆる幼児退行を起こします。これは、記憶を引き継いだ場合、かなりの高確率で起こる現象です」 「あの、その場合、どうなるんですか?」 「いわゆる精神年齢が幼くなるのです。言動や行動などは顕著でしょう。ですが、本来の知識は失われません。しかし、失う事は無くても、思い出せない事は有るかもしれません」 「え、じゃぁ、一体どうしたら」 「これに関しては、気をしっかり持つしかありません。一番危ういのは、夢と区別がつかなかくなった時です」 「気をしっかり持つ……ですね」  私は、反芻するように口に出す。 「今回は、私から夢に現れましたが、本来は貴女が呼んでください。もっとも言語を理解して話せるようになるまで時間がかかりますが。そして、それまでが危うい」 「そうか、まだ喋れない内は、記憶が曖昧になるかも知れないんですね」 「ええ、そう言う事です。ちなみに、私は心を読むのが苦手ですので、必ず言葉は口に出してください。呼ぶときもです」 「分かりました。で、あの、赤ちゃんの感覚っていつまで続くものでしょう?」  私が首を傾げて問い掛けると、ラケシスは眼鏡の端を持って持ち上げた。 「視覚から言えば、赤ちゃんは極度の近視状態です。視力で言えば、0.01から0.02。この状態が3カ月ほど続き、徐々に視力が上がって行きます。そして視覚情報と、前世の記憶が擦りあわされていきます。聴力も同様、認識できるようになるまでは数カ月。意識して聞けるようになるには1年必要とします。五感情報の殆どがそうです」 「え、そんなにかかるんですか?」 「それが当たり前です。前世の記憶が有るからと言って、急にはっきり見えたり、喋ったりとか、そんな事は有り得ません。第一、眼球も声帯も発達してません」 「ですよね……」  生れたばかりの赤ちゃんが喋る。たしかに有り得ないし、なんだったらホラーだ。 「記憶を引き継ぐという事は、幼児期の無能を体験するという事なのです。いいですか? 五感の発達してない赤ん坊の状態で、17歳の記憶があるという事は、それだけで苦痛なのです。いわば、極まった退屈なのです」  極まった退屈。  人間は退屈に弱い生物だって、何処かの学者が言っていたっけ。  何もできないなんて、一日だって辛いのに。それが一年以上続く。  でも、自分で選んだんだ、頑張らなくちゃいけない。  それに、幸人だってきっと頑張ってるんだ。 「それでは、お時間ですね」  ラケシスの言葉とともに、私の瞼がだんだんと重くなっていった。  我慢できない程、眠い……。 「おぎゃぁ、おぎゃぁ」  あ、こっちで起きたんだ。  私は、また無意識に泣きじゃくっている。  すると、誰かの手が近づいて来た。何となく分る。  私を覗き込む感じで、抱き上げたみたい。  温かくて優しい。きっとこれがママだ。  ママの胸に抱かれて、私は吸い付いた。  私は、ママから栄養を貰う。  変な感じ。記憶があるせいで、客観的に感覚を理解する事が出来る。  味も分からないけど、与えられた栄養が、体に巡って行くのは分かる。  それから私は、ママに栄養を貰うと、うんちをして、泣き、眠るを繰り返す。  客観的でいられるけど、感覚が曖昧なせいもあって恥ずかしくない。  いや、というか、恥ずかしがっても何ともしようが無いし。  だから、今は現状を受け入れつつ、気をしっかり持って過ごす。  しかしミルクしか飲んでなくても、うんちは固体に近いんだね。  でも、当たり前か、腸で吸収した残りカスなんだし。  他人の事みたいだけど、こうやって認識することで、退屈を紛らわす。  ラケシスに教わって無かったら、私は一体どうなっていたんだろう。  ああ、そう言えば最近、少し物が見える様になってきた。  三ヶ月くらいたったのかな? まだぼんやりだけど、ママの顔も見える。  ママは綺麗な人だった。  赤い髪で、目元に黒子があって。  ママが一緒に居てくれるから、孤独を紛らわす事が出来る。 「――。――――。」  相変わらず何を言っているか聞き取れないけど、微笑んでいるのはうっすら分かる。  あれからどれくらい経ったんだろ。部屋の隅が見える程度に視力が付いて来た。  天蓋のベッドに、調度品も何となく見える。それと裕福なのは分かった。 「――、ママの可愛い――。――なのよ」  あと、少しづつだけど、言葉が理解できるようになってきた。  毎日ママが話しかけてくれるお陰。ありがとうママ。  それと、愛してくれてありがとう。 「まぁま……だぁ」  上手く喋る事は出来ないけど、声は出せた。 「――なのね! ――わ! 愛してる――」  ママは、大喜びで私を抱きしめてくれた。  毎日愛してるって言ってくれるから、この言葉だけは一番に覚えたんだ。  早くママに言いたい言葉。 「あぁ、私の可愛い子。二歳の誕生日おめでとう!」  こうして私は、二歳を迎えた。誕生日は三月一日。この頃には、声帯も整って来た。 「まぁま、あいしてゆ」  最近分かった事だけど、私には名前が無い。  というのも、この辺りの風習で、パパが居る時に名前を付ける決まりらしい。  で、そのパパは遠征中で、帰りを待っている状況だって事。  何でも、パパは魔物退治の騎士団を率い、もう2年以上帰ってないらしい。  率いるという事は、其れなりの地位にある人なんだろう。  どんな人なんだろう。 少し楽しみ。 「奥様! 逃げて下さい!! さぁ速く!!」  それは、突然の事だった。  使用人の一人が、私とママの寝室へ飛び込んで来た。  私には、何が起きたのか分からなかった。  けどママは直ぐに、私を抱えると部屋を飛び出した。  ママは、私を抱いたまま、使用人と廊下を走る。  焦げ臭い。  この世界では初めて嗅ぐ臭い。そして、廊下の先で火の手が見えた。  私は、ママの胸元に手を当てた。 「まぁま、どしたの」 「大丈夫よ。私の可愛い子」  見上げるママは、焦りを隠すように笑っている。  そして、まだ雪深い屋敷の外へと飛び出した。  初めて見る屋敷の全容。二階建ての大きな屋敷が激しく燃えている。  ママは、私を大事そうに抱え、雪の中を走っている。 「逃がすな!!」  そんな声が、背後から追いかけて来る。 「ハンス、この子を、お願い」  そう言って、ママは私を使用人に手渡した。 「まぁま!や、やぁだ!!」  もっと、色々言いたいのに、たどたどしくてうまく言えない。  ママは、私の首にペンダントを掛け、それから、使用人に袋を手渡した。 「私に何かあったら、このお金で。この子の事をくれぐれもお願いね」 「はい、畏まりました」  私は使用人に抱かれながら、ママに手を伸ばした。 「まぁま、やぁだ! いっしょいく!」  ママは、私の手を取ると、おでこにキスをして、 「この子は、もうそんなに喋れるようになって。大丈夫よ、ハンスと先に行ってて。私の可愛い子」  背を向けると、短剣を鞘から抜いていた。 「ハンス行きなさい!」 「はい!」  ハンスは走り出した。私は、ハンスの肩越しに、ママへと手を伸ばし、 「まぁま!!」  叫んでいた。  遠くなって行くママの背中。  松明を持った集団がママを取り囲み、剣を振り上げていた。  ハンスは、私の口を押さえ、 「お嬢様、お静かに」  と、雑木林の中を走って行く。  それから、ハンスは私を粗末な布で包み、その子供はなんだ?と問われる度、嫁がガキだけ残して夜逃げしやがった。  と、嘘を吐いて、私達が住んでいた街の城門を馬車で抜けた。  街道では、馬車や人とすれ違う度、ハンスに喋るなと命令されて、私は口を噤んでいた。  ママはどうなったんだろう? それを考えると泣きそうになる。  その度、ハンスの迷惑になるからと我慢する。  私は、何があったかも知らない。だけど、ママが私とハンスを逃がしたんだ。  きっとまた会える。と、思う事で自分を慰めた。  ハンスを信じていたのに。 「悪く思わないでください」  とハンスは、笑いながら私に告げた。  ママから預かった袋からは、金貨をたったの一枚シスターに手渡していた。  私を離れた街の教会が運営する孤児院に預け、そのままハンスは姿をくらましたのだ。  私はハンスの、尖った鷲鼻の横顔を、恨みと共に一生忘れないだろう。  そして5歳になっても、まだ私はママを思い出す度、子供の様に泣き喚いた。  いや、何を言ってるんだろう。私は、本当に子供なんだ。  そして泣き喚く度、強く叱られた。 70d82ab0-697f-4415-b3de-172e81b09935
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