111人が本棚に入れています
本棚に追加
第94話 黒点は囁く
私は夢を見ていた。
この夢は、今いる世界の夢じゃない。
何となく分かる。
これは、前世で住んでいた世界だ。
『ミーンミンミンミンミーン』
『ミーンミンミンミーン』
公園が近いせいだろう。
引っ切り無しに騒ぐアブラゼミが煩かった。
「で、見つかったのか?」
「いいや。発見は絶望的だろうってね。二人とも憔悴しきってたよ」
「捜索は?」
「先週、打ち切られたよ」
「あぁ、それでか」
「そろそろ、区切りを付けたかったんだろう」
「お坊さん、来られましたよ」
「あぁ、じゃあ、俺たちも行くか」
「そうだな」
誰かの話声の後、止まない蝉の音と共に、木魚と読経が響き始めた。
古い家の縁側で、幼い前世の私が、苔生した庭石を眺めている。
「百合恵ちゃん、もう少しだからね。大人しく待っててね」
親戚のおばさんが、割烹着姿で私に缶ジュースを手渡してきた。
グレープより、オレンジが良かったのに。
そう思いながらも、口には出さず、
「ありがとう」
と、おばさんに、私は作り笑いを向けていた。
一部屋挟んで襖の向こう側では、読経が続いている。
退屈で仕方なかったが、どうすることも出来ずに、私は庭石の苔に咲いた、小さな緑の玉ころのような花を数えていた。
それは突然だった。
『ヒソヒソヒソ……ヒソヒソヒソ』
と、セミと読経と、時々聞こえる咳や咳払い以外に、何かが聞こえ始めたのだ。
この付近に一杯溢れる夏音と人音、それ以外の何かが確かに聞こえてくる。
私は、音の正体を探って辺りを見渡すと、それは直ぐ近くにあった。
私の横を、縁側を、黒い小さな点々が一列に繋がって動いていたのだ。
蟻の行列だろうか?
私は、その行列が何処から来ているのか、目で遡った。
するとそれは、読経が聞こえて来る部屋と此方側を隔てる襖の間から始まっていた。
勿論、襖の向こうにも、この黒い点の行列は続いているかも知れないが、開けて調べる勇気は無い。
私は、縁側を通って庭に降りて行く黒い行列に、顔を近づけ覗き込んだ。
するとそれは、蟻などでは無く、足も無く、頭か胴なのかも分からないような黒くて丸い粒だった。
『ヒソヒソヒソ……ヒソヒソヒソ』
そしてその粒は、延々と何かを呟いている。
呟き? 不思議な事に、得体の知れない黒粒から発せられる音が、私には言葉として認識できたのだ。
『本当に行方不明なのか?』
『保険金目当てだろ』
『怪しい』
『大して可愛がっても居なかったくせに』
『嫌い』『死ねよ』『汚い』『退屈』『嫌な女』
『無能が』『つまらん』『金の無駄』『腹減った』
『カスが』
「ひっ」
罵詈雑言の行列。
私は、仰け反るように黒い行列から離れた。
はずみで缶ジュースが倒れ、果物色の液体が広がる。
すると黒い行列は、何事も無かったようにジュースをすり抜けていく。
私は怖くなって縁側から飛び降り、裸足のまま庭から道路へと飛び出した。
その瞬間、
『ブゥゥゥン』
私の鼻先すれすれの距離でトラックが通り過ぎた。
トラックは急ブレーキで止まり、運転手が降りて来た。
「お嬢ちゃん、大丈夫か? 飛び出しちゃダメだよ? 怪我はないね、じゃあ、行くからね?」
と、矢継ぎ早に言ってから直ぐにトラックの戻り、走り出すその時、
「チッ」
運転手の舌打ちが聞こえた。
確かに、私が悪いのだが、舌打ちは無いだろう。
と思った瞬間、トラックの窓から黒い粒が落ちる。
『ヒソヒソヒソ』
黒い粒は道路に落ちて、暫くそのまま止まっていた。
あれは、さっき見た黒い行列と同じものだろうか?
私はそっと近寄り、覗き込む。
『クソガキが、余計な手間取らせやがって。誰かに轢かれて死んじまえ』
と、黒い粒は悪意をまき散らしていた。
刹那、私は嫌な気配を感じて、直ぐに辺りを見回した。
すると、黒い粒は、至る所に這い蹲っていたのだ。
そして隣の家からも、公園からも、排水溝からも、ごみ箱からも、黒い粒は延々と這い出して来る。
どうして気が付かなかったのだろう。
それらは這い出すだけでは無く、黒カビのように色々な物にこびり付いている。
すぐ横にも、足元にも、それは点在している。
怖い、凄く怖い。
私は跳ねる様に黒を避け、怯えながら黒い粒の居ない場所を探して、辺りを見渡す。
すると黒い粒は、何かに向かって進んでいるのが分かった。
怖いのに、私は黒い粒が何処へ向かっているのか気になり、半ば無意識に駆け出していた。
そして、辿り着いたその場所は、何気ない交差点の角だった。
前に事故でも有ったのだろうか。
電信柱に空き瓶が針金でくくられていて、それに活けられた花は枯れていた。
そして、よく見れば、空き瓶の影が異常に長く、割れ目のように広がっていた。
そこへ、黒い粒は吸い込まれるように落ちて行く。
この割れ目は何なのだろう?
どんどんと黒い粒が吸い込まれている。
私は近寄り過ぎず、遠巻きに眺めていた。
すると、その時、
「助けてっ」
と、声がした。
しかも、その声は割れ目から聞こえているのだ。
「だれかいるの?」
「いるよっ。助けてよっ。苦しいんだっ」
その声は、懸命に私に助けを求め、そして割れ目から黒い手を伸ばしている。
「ずっと叫んでいるのに、誰も助けてくれないんだっ」
私は思わず近寄り、割れ目から見えた手を掴み、引っ張った。
最初は重く感じたが、一度抵抗が無くなると、一気に引き上がった。
それは引き上げた瞬間、風船が弾むように、ふわりと飛んでから、すっと着地した。
その姿は、全身が黒い少年だった。
ただ黒いのに、不思議と少年だと分かったのだ。
そして卵の殻を割った時のように、黒に亀裂が入り、ぽろぽろと剥がれ始めた。
「ありがとう、君の名前は?」
「戸松百合恵」
「はっ」
私は此処で目が覚めた。
玉座で居眠りしていたらしい。
「リリィ、大丈夫?」
と、傍らの椅子から立ち上がり、心配そうにのぞき込むミラの顔に、私は微笑みを向けた。
「うん、少し怖い夢みちゃって。それより、いつの間にか寝てたみたい」
ミラは私の額をハンカチで拭いながら、
「無理も無いわ。かなり強行軍だったものね」
と、彼女も微笑んだ。
バヤン岬で、ユキトの石像が見つかった日、もう一つ大きな発見があった。
三つ連なる山が見つかったのだ。
しかもバヤン岬から見える場所に見つかったのだ。
何故、それが今まで見つからなかったのか。
理由は、あの大きな地震が起きるまで、存在していなかったからだ。
つまり、あの大地震の後、離れた対岸に隆起して現れたのだ。
そもそも、あの群発地震は地殻変動によるものだったのかも知れない。
私は、ユキトの石像が気になって仕方なかった。
だが、其れより先ずは対策だと、ガダ砦にすぐ戻った。
戻ってからは夜通し会議が開かれ、今しがた終わって、気が付いたら眠っていたのだ。
ミラは、よく私の髪を撫でる。
そして、優しく語り掛けて来る。
「少しベッドで休んでもいいのよ?」
「だけど、みんな寝てないのは同じだから……」
「そう、分かったわ。紅茶でも飲む?」
「うん、お願い」
ミラは、入口のパメラに頷くと、パメラは一礼してその場を出て行った。
立場が変わった今でも、彼女は私に対し、友であり、姉なのだろう。
だからこそ、私は変わらない彼女に安心を覚えるのだ。
「陛下! 立案を報告します。直ぐに裁定を」
と、ライルが入ってくるなり声を張り上げた。
「な、何? 藪から棒に」
「時間がないんだ。とりあえず聞いて?」
「う、うん」
私は、剣幕に押されながら、姿勢を正した。
と言うか、藪から棒とか、初めて使った気がする。
「じゃあ、改めて言うよ。バヤン岬に迎撃砦の建設を立案します!」
ライルは、私の前に立ち、声を張り上げてから自信ありげに笑った。
「いいよ。認める」
「え?」
私の一声で、ライルはハトが豆鉄砲喰らったような顔で首を傾げた。
「だって、もう私を納得させるだけの情報、揃ってるんでしょ? 時短だよ時短」
「いや、そうだけど、そこは聞いてよ!」
「ライルは、我儘だなぁ」
そして、結局語られた作戦は、壮大な物だった。
なんと、岬から湾の海岸線に巨大な防御壁を築くと言うのだ。
「でも、それほどの防御壁の材料は?」
「足りない分は、ガダ砦の補修分と、居住区以外を崩して使う。どうせ、此処まで来られたら囲まれて終わりだからね。無数の巨人相手なんて、正面のみに絞らないと勝機は無いよ」
「じゃあ、そんな大工事に関わる人手は?」
「せっかく移動してもらったけど、話が変わって来たからね。ギルドの街の人々も、人類の全てを集結する。勿論、騎士も戦士も、総勢千四百人全員で作るんだ」
「工期は?」
「二年」
「ギリギリだね。直ぐに行っていいよ?」
「そこは、ほら、君と少しでも話したいからさ」
「あー、それが本音か。でも、安心したよ」
「うん?」
「なんか、うん、やっぱりライルだなって」
パメラが運んだ紅茶は、飛び交う言葉の合間に、冷めてしまっていた。
そして、ようやく紅茶を飲み干す頃には日付も変わり、私は二十四歳を迎えていた。
その瞬間、
「リリィ、お誕生日おめでとう」
と、私の耳元にミラが囁いた。
直ぐに計画は実行に移された。
三隻の船は、往復を繰り返し、ギルドの街から民を運ぶ。
バヤン岬には、作業員用の街が建造され、
そして、燃える水や薪の有りっ丈が投入され、夜通しの工事が続けられる。
老いも若きも、男も女も、子供に至るまでが自分の出来る事で、建築に貢献した。
ミラと旧聖女隊のメンバーは、医療関係に従事し、希望の子達も、其々持てる力で建築に携わった。
「バニガンさん、お昼持ってきましたよ」
「おお、リリィ陛下。ありがとよ」
「しかし、建築現場、似合いますよね」
「はっはっは、うるさいっ」
勿論、私も働く。
みんなを鼓舞して回れと言われ、私は食事を運ぶ係を受け持った。
「アイラさん、次は?」
「次は、石切り場ね。それと、なにか昔に戻ったみたいね」
「あはは、そうですね」
汗水流して、みんなが生きるために戦っている。
ここまで生き残って来たみんなは、とても強いのだ。
結果、どんどん形になって行く。
青の月を迎える日には、魔持ちと戦闘要員はガダ砦に戻る。
今までとは勝手が違い、随分苦労したが、なんとか巨人を撃退。
手に入れた結晶は直ぐに焼却した。
私は、バヤン岬のがけ崩れで現れたユキトの石像の前に立った。
何故か石像の前には、御供え物が有り、花瓶まである。
どうやら何かしらの神仏のような扱いを受けている様子だった。
私が、石像を眺めていると、
「リリィが、大切な人だって言ったからよ」
と、ミラの声がして、私の横に並んできた。
「なるほどね」
と、私が視線を向けると、ミラも石像を眺めている。
私も石像に視線を戻した。
「前世で、恋人だったのかな」
「曖昧な言い方をするのね」
「だって前世だからさ。それとさ、イルンと比べると随分違うよね。あんなに似てるって思ったのに」
「前世の話、もうしても良かったの?」
「出来るからいいんじゃないかな。別に神罰がある訳じゃないし、前は言葉に成らなかったって言うか……。まあ、それはいいか。なんかさ、曖昧なんだよね」
「曖昧?」
「うん、記憶はね、前世の記憶はあるんだ。凄く好きで、初恋で。この恋が全てなんだ! って意気込んでた事まで覚えてる。なのに、その感情の部分が今は曖昧で。なんでそこまで盛り上がってたんだろうって思っちゃうんだ」
「リリィから、そんな言葉を聞くなんてね」
「おかしいかな? 私だって、ほら、女の子だし、って、そんな年でもないか」
「あら、歳なんて関係なく、いつまでも言っていいのではないかしら? それで恋でもすればいいのよ」
「じゃあ、ミラは?」
「うん? 何が?」
「恋だよ」
私が首を傾げると、ミラは石像を眺めたまま、
「私は、リリィが好きよ。リリィに恋人が出来ても、それはそれで好きよ」
と、言い終えてから、私に顔を向けて微笑んだ。
「あはは、知ってたけど。言葉にされると。なんか不思議な感じ」
「でも、素直な気持ちよ。私は生娘だから、分かって無いだけかも知れないけれど」
「それは、私も同じだけどさ……」
ミラは、私の肘に腕を絡ませ、
「でも、前世の彼には負けたくないって思うの」
と、再び石像を見上げた彼女の横顔は、とても真剣なものに見えた。
「訳分からないよね」
「うん?」
「だってほら、なんで石像が出て来たのって話だよ。前世の恋人の石像が現れましたとか、人生の中で一番意味不明だよ。しかも、何故ここ? ほんと訳分かんないよね」
私の声に頷きながら、ミラは、まだ石像を眺めている。
私は、ミラと肘を絡めたまま、
「分からない事は、今は考えない。だから戻ろっか」
と、エスコートでもするように腕を引いた。
早すぎる夕暮れを浴びながら、私達は、バヤン岬の街に向かう。
誕生日を迎えたのに、アトロポスに問うはずだった質問は、状況の変化で意味を失ってしまった。
分からない事は考えない。
そう言った舌の根も乾かない内に、私は何を問うべきか考え続ける。
私は、うそつきで迷子だ。
『ヒソヒソヒソ』
最初のコメントを投稿しよう!