第3話 異性を知るその2「喫茶店のマスター」

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第3話 異性を知るその2「喫茶店のマスター」

 瀬川さんとのデートから二週間が過ぎた。いや、実際には恋愛描写を描くための参考ということで、デートのふりをしてもらっただけなのだが、その結果がまさかスイーツ地獄に発展してしまうとは……  俺はこの二週間ずっと机に向かっているのだが、一向にネームが進まない。それどころか、どんなストーリーを描いたらいいのか、全くアイデアが思いつかないのだ。  瀬川さんには本当に申し訳ないのだが、あのデート体験は全くもって参考にならなかった。それどころか、ここ最近はスーパーやコンビニで見かけるスイーツを見るたびに、条件反射的に身体が震えてしまう。参考になるどころか、俺は大ダメージを受けた。甘いという感覚があまりにしつこくて離れない。スイーツの甘さこそ甘いもの好きにとっては至福の時なのだろうが、今の俺にとってはまさに呪いだ。  瀬川さん、手伝ってくれると言っておきながら、結局自分だけ楽しんでたのかもしれない。俺の立場から見れば、明らかにそう思える。そう思えば思うほど腹も立ってくる。しかし、スイーツを前にしたあの瀬川さんの表情を目の当たりにすると、あまりの迫力でどうしても断れなかったと思う。まぁ結局、全部奢ってもらったし、普通の恋愛ものとしては参考にならなかったかもしれないが、時が経てば面白おかしいエピソードということで、この体験を元とした漫画を何か描くかもしれない。そう思えると歯痒さも少しはましになる。  しかし、今現在漫画が描けない状況が続いている。他にバイトなどしていない自分にとって、漫画を描かないことには収入が一銭も入らないことには変わりない。本当に何か描かないと……  アイデアを出すため白い紙に何か書き込もうとするが、スイーツの残留思念が俺を邪魔する。 「あぁ、全然思いつかない……」  あぁ、本当に何も思いつかない。そう言えば、瀬川さんとのあれからずっと引きこもってばかりだな。場所を変えたほうが何かアイデアを思いつくかもしれない。それとこのしつこく甘さが残る感じもどうにかしないと……  俺は財布を取り出し所持金を確認する。お札様の姿が一枚と、後は六百といくらかのお金しか残っていない。お札のほうは残りの生活費として取っとかなければいけないから、六百円程度しか自由に使えるお金がない。この程度のお金で出来ることなんて限られてる。  俺はスマホで時計を確認すると、さっさと着替えて家の外に出た。  家の外を出てみたものの、どこに行けばいいのか全く分からない。当てがある訳ではなかった。別に外に出かけてみたからといって、何かアイデアが浮かんでくる保証はどこにもない。  なぜ、こうもネガティブ思考になるのかなぁ?自分でもそれが本当に嫌になる。だが、もう時間的にも余裕がないのも事実だ。出来るだけ早く漫画を描かないと、お金が底をついてしまう。  どこに行けばいいのか、自宅のアパートの近辺をうろうろしていると、ふとレトロな外観の喫茶店に目が留まる。俺はポケットから財布を取り出し小銭を確認する。  食費を切り詰めている自分にとって、喫茶店のメニューはかなり高い。どこに行ってもだいたいコーヒーや紅茶一杯で五百円ほどする。この金額だとスーパーのタイムセールを利用すれば、何日かの食糧を買い込むほうがよっぽど賢い選択だ。  しかし、このままだといずれ貯蓄が底をつく。問題解決のためには漫画のアイデアを出す、それしか道はない。  頭の中でいろいろ悩んでいると、口の中に甘いという記憶がどんどん広がってくる。ああ、どうしよう?  財布の小銭入れの中には六百円と少しほど。この強烈な甘いという感覚もどうにかしたい。他にどうすればいいのか全く思いつかないし、コーヒー一杯ぐらいならいいか、この甘さをコーヒーの苦味で中和したい。  俺は決意すると喫茶店の中に入った。喫茶店の内装はやや昭和レトロな感じ、ミステリー系のラノベに出てきそうな雰囲気の良いお店だ。店の中をさっと見るとカウンター席に座った。  喫茶店やカフェといえば今までチェーン店のところしか行ったことがない。漫画家や作家がアイデアを出すためカフェなどに行くという話はよく聞くが、こうまで雰囲気が良いところだとかえって緊張してアイデアが出せないのではと思ってしまう。 「いらっしゃいませ」  おっと、女性の声。顔を上げると目の前にいる若い女性の姿が目に入った。歳は二十代後半から三十前半ぐらい、控えめなダークブラウンなポニーテール、化粧はナチュラルな感じで白のシャツと黒のエプロン姿が何とも大人っぽくて良い。 「メニュー表こちらになりますので、決まったら声かけてください」  高過ぎず低過ぎず何とも大人っぽい声。良い感じだ。だが正直、ちょっと出来過ぎじゃないかと思う。こんな雰囲気の良い店にこんな美人が働いているという、童貞な俺にとってあまりに非現実的な光景だ。 「あっそうそう、これお冷やですので。注文決まったら声かけてくださいね」 「あっ……どうもすみません」  俺は渡されたメニュー表に目を通す。一番安くても五百円のコーヒーと紅茶それぞれ一杯分、注文出来るものはこれが限度だ。 「あっあ〜あの〜、すみません」  何を緊張してるんだ俺! 「あっはい」 「コーヒー一杯お願いします」 「え〜と、ホットですかアイスですか?後種類は?」  コーヒーの種類か、気分的には間違いなくホットだな。後あまり苦いのが得意ではないので、恐らくアメリカン辺りが無難だろう。 「あっえ〜と、ホットでえ〜と、アメリカンをお願いします。一杯分だけ」 「分かりました。少々お待ちください」  待ってる間再び店内のあちこちに視線を移す。そう言えば他の客が誰もいない。まぁ、昼間の中途半端な時間帯だからなのかもしれないが、あまり客が来ないのかなこの店?まぁそのほうがアイデアも出てきそうなものだが、緊張からなのか思ったことが思わず口に出てしまったのではないかと思ってしまい、独り気まずくなってしまう。 「お待たせしました」  目の前に白いコーヒーカップが現れる。コーヒーカップからは程良い感じに湯気が出る。あぁ、良い香りだ。 「いただきます」  ご飯ではないのだから、いただきますなんて言わないでいいのか?可笑しかった俺?まぁ、いい。コーヒーカップを手に取り少し啜ってみる。 「美味しい……」  正真正銘、正直な感想だ。本当に美味しい。コーヒーなんてインスタントをたまに飲むぐらい、普段飲むものといったら水道水がほとんどだ。 「ありがとうございます。そう言っていただけてとても嬉しいです」  笑顔が何とも美しい。思わず見惚れちゃうと言うよりは、見てて落ち着くというか、人に安心感を与える感じの、セクシーや小悪魔とは全く正反対な部類の美しさだ。 「本当に美味しいですよ、このコーヒー。思わず美味しいって言っちゃいましたもの」  あれ?自分でも不思議なぐらいきちんと喋れてる?普段人と話してるとよく噛むものなのだが、それだけ落ち着ける相手なんだなこの店員さんは。これも一種の才能だよな、本当に。 「そう言っていただいて、もう本当にありがとうございます」  せっかく良い感じになっているので、ここで会話を広げたいところだ。さて、何を言おうか? 「ここで働いてもうどれぐらいですか?」 「そうですね。もう五年ぐらいになるかもですね」  五年か、結構長いな。あぁ、でもこれが普通なのかな。俺なんてバイト長くて半年ぐらいだからな。漫画家としても、いや一応デビューして二ヶ月ってだけで、全く漫画描けてないからな。みんな大体これぐらいの勤務年数なんだろう。 「元々祖父のお店だったんですけど、わたしが継ぐことになって、まぁ元々喫茶店やってみたかったってのもありましたし、何とかやってるって感じですね」 「あぁ、そうなんですか」  ここの喫茶店のマスターなのか。あれ、マスターって呼び名でいいのか?店長?まぁ、いいや。でも喫茶店の女性マスターって、何かカッコいいよな。 「あっそうそう!まだ試作の段階なのですけど、ちょっと今までと味変えてみようと思って、チーズケーキ良かったら食べてください」  コーヒーカップのすぐ横にチーズケーキ一切れをのせた白い皿が置かれる。チーズケーキか、いつもなら喜んで口に運びそうなものだが、瀬川さんのせいで今は甘いものを見ただけで拒絶反応を示す体質になってしまっている。 「もしかしてお嫌いですか?」 「あっ、いえ……」  せっかくのご好意なのにここで頂かないのは失礼なのではないだろうか?いや、失礼だよな?甘いものはもう懲り懲りなのだが……仕方ない。いや、仕方ないって思うこと自体、失礼極まりないよな。きっと美味しいはずだ。有り難く頂こう。俺はケーキ用のフォークを手に取ると、チーズケーキを掬って口の中へと運ぶ。 「美味しい……」  もちろん正直な感想だ。本当に美味しい。あんなに甘いものは口に入らなかったのに、このチーズケーキはすんなり口に入る。あまり甘くない。程良い酸味にほんのり甘い感じが絶妙だ。あまりに美味しいので一気に平らげてしまった。 「美味しいですよ、これ」 「ありがとうございます」  思いもよらない素敵な御馳走と彼女の優しい笑顔。正に至福の時だ。こんなにも幸せに感じたのはいつ以来だろうか?今なら漫画が描けそうだ!……そんな気がする。 「お店ってお一人でやられてるんですか?」  気分が良くなったせいか、つい余計なことを訊いてしまった。俺は言ってしまった直後、気持ちがダダ下がりしてしまう。 「そうですね。先月まではバイトの子がいたんですけどやめてしまって、今は一人でやってます」 「そうですか」  この様子だとどうやら不味いことは訊かなかったようだ。う〜ん、どうなんだろう?やっぱ不味かったのかな?こういうの分からないのってホント何においても経験ないんだろうなって思ってしまって、心底自分に嫌気がさしてしまう。 「今はちょっとお客さん全然いないですけど、時間帯によっては一人じゃ正直きついなって思うこともあるので、バイト募集しようかなって思ってるところなんですけどね」  そうか、バイト募集か、なるほど。って!これって、一緒に働けるチャンスじゃねぇのか!?喫茶店のことについて実は良く知らないし、ここで経験を積めば漫画にも活かせるかもしれない。ってなことは表向きな理由で、本当はただこの美人マスターと仲良くなりたい。それだけだ。いや、それだけじゃないんだけど……さぁ、どうする? 「あっ、え〜と、あの?」 「はい?」 「あの〜、さっきバイト募集しようかって、そんな話してたと思うんですが、あのその〜、ちょうどバイト探してたところなので、あっえ〜と、喫茶店とかって未経験なんですけど、もしよかったら雇っていただけませんか?」  あっ、言っちゃった。あぁ、でもどうしよう。こんなに明らかに緊張したような喋り方じゃ、どうせ雇ってもらえないだろうな。失敗したよ俺! 「え〜と、いいですけど」  えっ!?OK?やったー!OKもらっちゃったよ。 「ありがとうございます。ありがとうございます」 「では後日履歴書書いて持ってきてもらえれば」 「分かりました」 「え〜と、こういう場合面接したほうがいいのかな?いつぐらいがいいだろう?」 「あの、明日履歴書書いて持ってきますので、面接は後から都合が良い時で大丈夫です。」 「そうですか。分かりました」  俺は立ち上がると伝票を持ってマスターに渡す。 「五百円になります」 「五百円、五百円と。あっ、あのケーキ代のほうは?」 「あれは試食のサービスですので、その分のお代は入りません。大丈夫ですよ」  会計を済ませると俺は店を出ようとドアのほうに向かう。あっ、そういえばこの店何て名前なんだろう?店の看板とかろくに見なかったからな。俺は立ち止まり振り返る。 「あっあの〜、この店の名前って何って言うんですか?」 「喫茶倶楽部です」  喫茶倶楽部、いい名前だ。俺はマスターの優しい笑顔を最後に店を後にした。
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