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S市。その土地に私が舞い戻ったのは五年前の事だ。
舞い戻って直ぐに勤め始めた職場で、小学生の頃に遭遇した、ある恐怖を思い出した。
職場の隣には、T教団の宗教施設が昔からある。
その施設の外観は、私が小学生だった頃から変わっていない。
ある深夜勤の明け方、職場の駐車場で喫煙していると、隣の施設から何か儀式でも行っているのか、太鼓の音色が聴こえて来た。
ああ、やっぱり中田君の言っていた通りだ。ここでは早朝に太鼓の音が聴こえるのだ。
小学生の頃、ある朝登校すると、同級生だった中田君が、こんな話しをした。
中田君の自宅は、T教団の施設と道路を挟んで真向かいにあった。
その日の早朝、中田君がトイレで用をたしていると、トイレの窓から見える宗教施設から太鼓の音が響いて来る。何をやっているのだろう、と好奇心に駆られた中田君は、そのまま玄関を出ると施設に向かった。
当時、施設の隣には、まだ私が勤める職場の建物は無く、だだっ広い田甫だった。
中田君は田甫に面した施設の小窓から、中を覗き込んだ。
何があったの?
教室の片隅で青い顔をする中田君に訊くと、彼は双眸に恐怖を湛えながら、それでいて自分の発見を発表するのが嬉しいのか、自慢気に応えた。
鬼が居た。
鬼?
そうだよ、あそこには鬼が居る。
その日の夕方、好奇心に負けた私は、中田君の案内で早速鬼を見に行った。
陽も沈みかけた黄昏時。辺りには赤蜻蛉の群れが忙しなく空を舞っていた。
私と中田君は、田甫の畦道を通り、宗教施設に近付くと、小窓から中を覗き込んだ。
中田君が言っていた太鼓の音は聴こえなかった。
施設の中は小学校の体育館の様に、板張りの床に高い天井の広間となっている。
そこに二人の鬼が居た。
角こそ生えていなかったが、その灰色の顔は中世の図画にある鬼の様に、筋肉が隆起してゴツゴツとした異形の姿をしていた。しかし着る物は、黒のスーツやワンピースと、人間と変わりない格好をしている。
二人の鬼は、互いに何かするでもなく、ただボーっと虚空を見詰めて突っ立っている。
私達は、暫く興奮気味に、その二人の鬼を眺めていた。
するとスーツ姿の鬼が、こちらに気付いた。
逃げろ!
中田君に言われて、私はその場を急いで離れた。
中田君は道路を挟んだ自分の家に、私は隣の町内の自宅に向かって走った。
田甫の中から振り返ると、施設から出て来た鬼が、中田君を追い掛けて行くのが見えた。
帰宅した私は、恐ろしさのあまり、その夜は中々寝付けなかった。
中田君は、あの後どうなったのだろうか。明日、無事に学校に来るだろうか。そればかりが気になった。
翌朝、校門で中田君と鉢合わせた。
私の心配をよそに何事も無かった様な素振りの彼に、昨日の話をすると、何の事だか判らないと返答された。
判らない筈は無い、あの後、鬼から何かされなかったのか、と追求すると、彼は不快を露わにして逃げて行った。
あれは全部、子供の頃の妄想だったのではないか。早朝の宗教施設から聴こえる太鼓の音を聴きながら、ふとそう思ってみた。
だが、それでは疑問が残る。
中田君の話しには、早朝、太鼓の音が聴こえて、それに誘われる様に玄関を出たとの件があった。しかし私がこの太鼓の音を初めて耳にしたのは、この職場に勤め始めてからの事だ。あの一連の記憶が子供の頃の妄想ならば、早朝に響く太鼓の音について、この職場に勤める以前から知っていた筈がない。知っていたのは、中田君がそう言っていたからだ。
ならば記憶にある、太鼓に誘われ鬼を目撃したと語った中田君の姿は、間違いではないのだと思う。
そして、その記憶から繋がる、私も見た黄昏時の鬼の姿も。
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