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私は、以前からどうしても腑に落ちないことがあった。世の中は、分からないことばかりであるが、おおよそのことは常識的な解釈で理解できるものだ。
ところが、一つだけ自分の中にストンと落ちてこないものがある。
それは、人類の宇宙開発である。
人工衛星の打ち上げや、宇宙ステーションでの科学実験、さらに惑星探査までは未知なるものへのあくなき好奇心、純粋な科学的関心ごとであると考えることができる。
しかし、将来、人類が火星に移住するというようなことは理解できない。人類が、なぜ火星にまで住まなければならないのか。真剣に火星移住計画を考えている科学者がいることには正直驚いている。
単に、各国の資源開発競争だけではないのであろう。そこに、何か別の意図があるのではないのか。
※
私の友人の小此木は、アマチュア天文家であり、中学生時代から地元では有名な天文オタクである。今は、某大学の理学部で教鞭をとっている。
彼とは、中高が同じで親友である。
ある日、仕事の帰り、本屋でばったりと会った。
「おう、半田じゃないか、ずいぶん久しぶり。ちょっとそこらでビールでも飲まないかと声をかけられた。
「ああ、いいよ。オレもお前にちょっと話したいことがあったんだ」
と私は答え、彼の行き付けのスペインバルへ入った。
「半田は、最近どうなんだ。まだ、独り身を続けるのか」
「ああ、一人は気楽でいいさ。自分のような我がままな者と一緒に暮らす女はいないさ」と私は言いビールで乾杯した。
「ばかだな、お前は昔から自意識が過剰なんだよ。人はみんな自分勝手なものだ。どこかで、折り合いをつけて生きているんだよ」
「ところで、半田、オレもお前に話したいことがあってな。先日、小惑星の軌道計算をしてたんだけど、どうも変なんだ」
小此木は、真剣な話をするときは決まって遠くを見るような目をする。
「どう変なんだよ。まさか、その小惑星が地球と衝突するとかって言う、どこかで耳にしたようなこと言いだすんじゃないんだろうな」と私は答えた。
「いや、そんなことならもうとっくに誰かが警告しているさ。お前以外に話しても信じてくれそうにないことなんだ」
小此木とは帰り道が同じ方角だったので、一緒によく空想話をした。二人とも数学や物理、天文学、それにSF小説が好きで専門誌を買い想像を膨らませた。
若者特有の向こう見ずな、そして怖いものなしに持論をぶちまけあった。高校の試験問題の回答に、自作の発展形の回答を競って書いて先生を驚かせたり嘆かせたりした。
小此木は、地主の子供として育ったが、いわゆるボンボン育ちではなかった。甘やかされて育ったのではなく、野山を駆け回り珍しい石を拾ってきたり、雑草や昆虫を捕まえて食べてみるという一風変わった少年だった。
しかし、数学の天才であった。
私は、サラリーマン家庭に生まれ、子供の頃からこれという教養のつく教育はいっさい受けず、両親を反面教師として自分で自分を育てたと思い込んでいた。
時々頭をかすめたのは、あの事故さえなければ自分は大した才能を発揮したのではないかということであったが。それでも、勉強は嫌いではなかったし、むしろ努力して少しずつ勉強が進むことに喜びを覚えた。
「半田、オレは最近大変な発見をしたようなんだ、驚くなよ」
「なんだ、早く言え。何を聞いても驚かないぞ。自分も妄想の大家だからな」と先をせかした。
「よし、今いるオレたちの時空が他の時空と重なる瞬間があることが分かったんだ。ある小惑星の軌道が極わずかに揺れていることから導き出した結論だ」と小此木が言う。
「時空が重なるとどうなるんだ」私はビールを一口飲んだ。
「そこで物質が、いや地球が消滅するかもしれない」
小此木が何でもないことのように言う。
「面白くなってきたな、小此木。学生時代を思い出すよ。よく話したよな、そんなこと」私は笑った。
「これはとんでもないことになる、オレの計算が間違っていればよいが。しかも、この結論に至ったのは、どうもオレだけではないらしい」と小此木が言う。
「もしそうだとして、いったいその時空の重なりはいつなんだ」私はさらに先をせかした。
「一回目の時空の重複は、202×年×月×日、午前×時××分」それがどれほどの影響を及ぼすのか誰も分からない。しかも、放っておけば、今後7年ごとにそれを繰り返すことになると小此木は言う。
「何だって、繰り返し時空の重複があると言うのか。もしそうだとして、人類に何ができるんだ」私はもう一口ビールを飲んだ。
「惑星移住しかない、さしずめ火星あたりかな」小此木が言う。
「何、火星だと…」今日、小此木に話したいと思っていたことがここで繋がったようだ。
※
恵理那は、同じ会社の総務部で働いている。
37歳独身、以前交際していた恋人が事故で亡くなって以来、仕事一筋だった。
ある日の仕事帰り、たまたまワインバーで見かけたのが始まりだった。
私は酒はゆっくりと、そして日々のいろいろなことを頭の中に巡らせて一人でぼんやり飲むのが好きであった。
いい酒にいい肴、そして一人の時間、それが、自分の最高に贅沢な時間なのだ。私は元来、人に気を遣ってしまうサービス精神旺盛な方だ。
しかし、他人に気を使いながら、リラックスすることはできない。一人は好きだった。そんな自分を認めてくれる、しかも気を使わなくてもいい女性が恵理那であった。
「あら、半田さん、お一人ですか?」
「ああ、総務部の島田・・恵理那さんでしたっけ」
「ええ、半田さん、たまに駅前の本屋さんでお見掛けしますよね」
「私、よく行くんですよ、何でも揃ってて。かわいい小物雑貨が好きなんです」
「へえ、雑貨好きですか。僕も小物雑貨好きですよ。柄じゃないけどね。手に取って眺めているだけで癒されるんです」
「半田さん、結構可愛いんですね」
「いや、恵理那さんの可愛さには負けますよ」つい、軽口になってしまう自分がいた。
「半田さんて、捉えどころのないところがあって、ちょっぴりミステリアスだわ」
その後、仕事や趣味の話で盛り上がり、時間のたつのもあっというまであった。そうやって、月に一度はそのワインバーで話すようになった。
互いに好意を持っているのは、分かっていたし、付き合いだすのも自然の成り行きであった。
そんな平和な毎日がとても好きであった。このまま時間を凍結できればと思うのであった。
※
小此木から連絡があったのは、あれから半年後である。
「半田、オレはやるぞ」
「やるって、何を」
「時空の重なりに飛び込んで、消失を避ける」
「何?、そんなことができるのか」
「わからないが、ある意味、賭けだ。人類の火星移住計画には、まだ相当の時間が必要だろう。その前に、やれることはやってみようと思う」
「身を挺してやる」と小此木が言う。
「どういうことだ」私が尋ねた。
「オレが飛び込んで小惑星の時空の平衡を壊してみる」と小此木が言う。
「戻って来られないぞ。それになぜ、お前がやらなければならないんだ」と私は小此木の顔を睨んだ。
「思いついたのはオレだ。議論する時間はない。機を逸せずに実行したい」小此木はきっぱりと言った。
※
ケアンズの冬は素晴らしい。北半球の日本は真夏であり、夏休み中の日本人観光客が大勢いる。ここは昼は暑いが湿度は低い。乾季なのだ。害虫も少ないし快適だ。
朝、ホテルの近くにあるシーサイドウオークは、散歩やジョギングする人達が多い。
恵理那は、サンダル履きで白い麻のワンピースが似合っている。屈託ない笑顔が好きだ。
彼女は、私のどこが良いのだろうか。人畜無害の単なる“いい人”ということなのであろうか。それを深く問うには勇気がいった。
彼女の希望で旅に出たのだ。旅とはいいものだ。本当に、この世界に終わりがあるのだろうか。危機が差し迫っているというのに、世界はのんびりしたものだ。
「野生のフラミンゴがいるわ」と恵理那が言う。
「この辺のは、ピンクではなく黒っぽいフラミンゴなんだな」と遠くに群れをなすのを見て私は答えた。
「いいじゃない、この辺にはワニだって何だっているからね」と恵理那は微笑む。
「何でもありか」私は答えた。
※
「どうしてもお前が行くと言うんだな」
「ああ、どうしても守りたいものがあるんだ。これがオレの使命だったんじゃないかな」
「お前の探していた物が見つかったってことか」小此木は改めて遠くを見るような目で私を見た。
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