黒龍の鱗

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 ─王暦367年、5月─  繰り返される激しい戦いのなかでも、この渓谷の春は他のどの場所よりも群を抜いて美しかった。  夕日に照らされた谷には見渡す限り色とりどりの花が咲き乱れ、はるか遠い王都へ向かって下ってゆく風は、冷たさの中に芽吹きはじめた草の匂いを孕んでいる。  谷の向こうから押し寄せた一師団を半日かけてようやく殲滅したロカ王国騎士団は街道脇の川辺に陣を敷き、束の間の休息を取っていた。  僕が生まれてから10年。  王国騎士団の存在意義は外つ国からの防衛から、突如現れた人外の魔物たちの討伐へと大きく変化していた。  僕はいちど空高く舞い上がり、周囲に魔物の影がないことを確認してからリュートスの元へと戻った。  いまや師団長となったリュートスは、巨大な棍棒を持ったオーガに受けた左手の傷を治癒魔法で治療している。  僕はリュートスの傷がふさがるのを待って声を掛けた。 「近くに敵はいないよ。ただ、ここからずっと進んだ谷の入り口に真っ赤で大きな……おそらくドラゴンが居座ってる。とっても強い魔力で、近づくのが怖くて……」  リュートスは僕の中途半端な報告を聞き終わると、えらいえらい、と治ったばかりの左手で優しく頭を撫でてくれた。  もっとちゃんとした報告が出来なかった悔しさはあったが、僕はこの瞬間がいちばん大好きだった。 「撫でられるのが好きだなんて、キミはボクと同じぐらい大きくなったのに、まだまだ子供だなあ」  そう言って笑うリュートスの顔は、たとえ騎士団のあり方が変わっても、僕が生まれたあの時からずっと変わっていない。  リュートスは僕を撫でながら近くにいるゴルド団長に話しかける。 「どうやらその赤いドラゴンが、ボクたちの最大の敵らしいね」  ゴルドは長いため息の後でぼそりと口を開く。 「こっちはこの谷に攻め入ってから3日で兵の半分がやられた。守護獣持ちは俺とお前とファランしか残ってねえ。しかもレグル宰相は撤退は禁止だと言ってきてる。俺たちに退路なんかねえ。あるのは赤いドラゴンを倒してさらに進んだ先にある名誉だけだ」  ゴルドが鎧をきしませながら吐き捨てるように口にした。  僕にはゴルドの苛立ちを理解することができなかったが、身体を覆う魔力はとても悲しそうに見えた。  そこへ、険しい顔をしたファラン副長が駆け寄ってきた。 「ゴルド団長、リュートス、話がある。来てくれ」  いちど僕の目をまじまじと見つめてから、ファランがそう口にして陣から離れた場所にあるテントへと走り出す。  その表情から覚悟のようなものが窺えたからか、僕の喉を撫でてくれていたリュートスは表情を戦士のそれへと変え、慌ててテントへと走って行く。  彼らが疲れ切った顔で戻ってきたのは、すっかり日も暮れてからだった。  ファランの命令で見張り以外の兵士は陣の中央へ集められ、焚き火を囲むようにして輪を描いているなかで、リュートスたち三人は今までに見たこともないような険しい顔を浮かべていた。 「これから私たちがどうすべきか話をする。だがその前に見てもらいたいものがある」  ゴルドが口火を切ると、木の爆ぜる音に混じって、輪のあちこちから神妙な声が漏れる。  続いてファランが立ち上がった。 「私はこの谷に入ってすぐ斥候を山に放って村に向かわせた。そのうちのひとりが今日の夕方に戻ってきた」  そこでいったん話を区切ったファランは、いちど全員の顔を見まわしてから水晶を取り出す。 「ここに、その斥候の見てきたものが記録されている」  ファランは魔法で焚き火を消すと、暗くなった空に水晶の映像を投影した。  それは20分ほどの映像だった。  村人たちを施設に閉じ込め、強引に魔力を流し込むことで身体を変異させ、同時に強い麻薬による洗脳を行って人間を襲わせるように仕向ける。  その目的は、国内の治安を優先し、他国との戦争を頑なに拒んできた騎士団を消し去るため。  騎士団が全滅したら魔物化した人間を新たな軍隊として編成し、すぐにでも他の国と戦争を起こすため。  映像は、施設で働く兵士の喉に短剣を突き付け、このおぞましい計画とその首謀者の名前を聞き出したところで終わっていた。 「すべてはレグル宰相が……」  映像が終わったとき、その場に口を開ける者はいなかった。   「と、いうことだ。王国は、いや、レグルは我々に死ねと言っている」  はじめに口を開いたのはゴルドだった。 「だがな、俺はそれに真っ向から逆らおうと思う」  その力強い言葉にざわめきが起こった。 「村まで辿り着いて、王国の人間をとっ捕まえて生かしたまま連れ帰る。そこで今回のことを洗いざらい吐かせて、レグルを失脚させる。それしかねえ。みんな、死なないために今は命を捧げてくれ」  ゴルドが頭を下げると、リュートスが口を開いた。 「この先、谷を進んだところに村の入り口がある。そこには強い魔力を持った赤いドラゴンがいるんだ。そいつはボクと隊長、副長でおびき出して抑える。その間にみんなは谷の両手に分かれて、一気に村まで攻め込んで欲しい。今夜のうちに出来るだけ谷を進んで、決行は明日の夜明け前。……これがきっと最後の戦いになる」    団員たちが準備を急ぐなか、僕とリュートスはその場に残らされていた。 「ねえ、みんな準備してるよ? リュートスも準備したほうがいいよ?」  僕の言葉が聞こえているのかいないのか、僕の目を真っすぐに見ながらリュートスは悲しそうな笑顔で頷く。 「スノウ。これから僕たちが話すことをちゃんと聞いて欲しい。これは僕と君にしかできないことなんだ」  右手の甲に咲く花を揺らしながら、リュートスはそう言って僕を撫でる。  僕は理由は分からないけれど嬉しさのなかにどこか不安を覚え、自分の右手にもちゃんと花が咲いていることを確認する。 「いいかスノウ。おそらく俺たち三人と守護獣だけじゃ、あの赤いドラゴンにゃ勝てねえ。斥候が報告してきた魔力量からもそれは明らかだ」  ゴルドが真剣な表情で僕を見ている。 「つまりだ、俺たち三人はきっと死んじまう。そうなるとお前を含めた守護獣も死んじまう。もう赤いドラゴンも戦争も、止められる奴はいなくなるんだ」  僕がどうしていいか分からずにいると、ファランが沈痛な顔で口を開いた。 「あのドラゴンを倒せるとしたらきっと、君しかいないんだ、スノウ」  ファランの歯ぎしりする音が聞こえた。  僕の肩をそっと抱きながら、リュートスが囁く。 「明日、キミとボクの魂を完全に分ける。ボクたちは、繋がりを断つんだ」  あまりの言葉に振り向くと、リュートスはぼろぼろと泣いていた。  その身体を包む魔力は、見たこともないほど悲しい色に揺らいでいる。 「え、やだよ。ずっと一緒、強くなろうって言ったじゃないか! やだよ!」  僕の両眼から白い結晶が次々と零れる。  リュートスは優しく首を振りながら、僕の身体を強く抱きしめてくれた。 「いいかい、スノウ。明日の朝になったら僕たちはドラゴンをおびき寄せて、この谷と村に誰も出入りできない結界を張る。そのときキミは結界の外にいるんだ。そうすればボクが死んでもキミは死なずに済む。結界はおそらく200年は消えない。キミは今よりももっと強くなって、ドラゴンを倒してくれ」  話している間、リュートスはずっと震えていた。  僕は喋ることもできず、ただ結晶を零し続けるしかできない。 「この谷にいてくれたら、いつか絶対に迎えに来るから。約束する!」  リュートスが言い終えた瞬間、近くで巨大な火柱が上がった。 「敵襲うっ! 真っ赤なドラゴン一体です!」 「くそ! 兵士が吐いたことに感づきやがったか!」  ゴルドはそう叫ぶと、ファランとリュートスに向けて目くばせする。 「もう間に合わねえ! 騎士団が残ってるが結界を張る! リュートス!」  リュートスは頷き、僕の身体から伸びた光る糸を切った。 「やだよ! 僕も戦う! ねえリュートス!」  リュートスは今まで見たなかでいちばん優しい笑顔を僕に返し、ありがとう、と口にした。  次の瞬間に僕は空高く弾き飛ばされ、眼下で谷から村までを覆う巨大な結界が張られるのが見えた。  たくさんの命が散ってゆくのを、僕はただ見ていることしかできなかった。
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