黒龍の鱗

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 ─王暦1782年、7月─ 「なあ、お前は覚えているのか? 自分がこの世界に生まれた日のことを」  そう口にした直後、私の尾の先が深々と腹に突き刺さったままの女剣士がどさりと地面に崩れ落ちた。  女は両肩に赤い十字のあしらわれた鎧を纏い、肩で息をしている。  その鎧はロカ王国騎士団のものであることから、この女も私から零れ落ちた欠片を拾い集めるために遣わされたに違いない。  黒龍の鱗。  黒く光る欠片はそう呼ばれ、信じられない程の高値で取引されるのだと、いつか屠った剣士が口にしていた。  私はぐるりと首を回し、草木も生えなくなった渓谷のそちこちに転がる塊を見渡し、ため息をつく。  私にとってこの約束の場所を汚すロカ王国の人間は、すべて敵だ。  立ち入ったら、殺す。  今までも、これからも、単純なその理が私が作り上げた掟だ。  何かが動く気配にふと視線を落とすと、女が地面に突き刺した剣に寄りかかってなんとか立ち上がり、こちらを見ている。  その顔は苦痛に歪んでいる……はずだった。  女の顔は、笑っていた。  いつ以来だろうか、私は僅かな恐怖を感じていた。  もうよい、足掻くな、弱き者よ。  恐怖を悟られぬよう、そう口にしようとした私の目に自分の足元に広がったいくつもの染みが映る。  私は痛みの残る首筋に手を触れ、そこに傷があることを確認した。  女の笑顔の意味を理解した私は、思わず声を出して笑う。  不死身の黒龍と呼ばれる私に傷を与えた者に、弱き者は失礼だったか。  私は女剣士にゆっくりと顔を近づけ、目線を合わせた。 「名乗れ。私にひと太刀を浴びせたお前に敬意を表し、名を覚えておこう」  女は苦しそうに口を開く。 「ロカ王国騎士団、黒龍討伐隊長の……エトゥラだ」  女はどこか強さの中に優しさを湛えた光を宿した目でそう口にする。  それははるか昔、ロカ王国の騎士団がまだ人々のために剣と魔法を振るっていた頃の、強さと誇りを持った目によく似ていた。  私の脳裏に、不意に柔らかい風の駆け下りるこの谷の風景が蘇り、ぼとり、と音をさせて握り拳ほどの黒い塊が私と女剣士の間に転がる。 「エトゥラとやら。先ほどの一撃、見事な太刀筋だった。ただ、あいにく私は死ねない身体でな」  王国騎士団が全滅し、ひとり戻るあてのない主の帰りを待ち続ける身には、あまりに時間というものは残酷だった。  圧倒的な孤独、そして主が死なない限りは死ぬことができないという絶望。  脳裏にこびりついた古の記憶を大事に抱きかかえながら自らをこの谷に縛りつけ、死ぬこともできず、谷を汚す騎士団を屠る。  自らの存在意義すらも霞んでしまうほどに、私はただ永遠とも思える季節をこの場所でひとり見送ってきた。 「エトゥラ、そなたは私が国を亡ぼす悪龍と聞いてここに来たか? それとも、騎士団を全滅させた魔物か?」  私は自嘲するようにそう問いかけた。  自らの愚行を隠蔽するため、長い時間をかけて捻じ曲げた歴史を民に植えつけてきた王国。  その真実を知る存在である私が、王国による歴史改竄によって討伐の対象となってしまっていることを知ったのは千年ほど前だった。  私だけならまだしも、ロカ王国を危機から守った騎士団までも侮辱されたと知った私は怒りに震え、王国を滅ぼそうと考えたこともあった。 「私が学んだ歴史ではお前の言ったとおりのことが書かれていた。だが私がお前を目の前にして抱くのは、謝罪の気持ちだけだ」  こいつは、死を目の前にして狂ってしまったのだろうか。  私にはエトゥラの発する言葉の意味が理解できなかったが、その言葉には不思議な暖かさがあった。  何も言えないままただエトゥラの瞳を見つめる私に、問いが投げかけられる。 「お前は、生まれたときのことを覚えているのか?」  苦しくも芯のあるエトゥラの声が私の耳に響く。  あの日のこと、忘れるわけがあるまい。  私の脳裏にもういつのことか分からないほど昔の、まだ私に存在理由があった日々が蘇る。  私はゆっくりと身を低くし、エトゥラと視線を合わせる。  エトゥラはそれに呼応するかのように剣から手を放し、地面に座り込んだ。 「そうだな。お主の命の火が消えるまで、私の見てきた真実の物語を語ろう」  私の視線の先で、エトゥラはもういちど笑った。
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