第七章『南の訪問者』

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「……暗くて何も見えないですね」 「照らしてあげるよ」 「……ああすみません」 玄関前までやって来た俺達……真っ暗で鍵穴に上手く鍵を差し込む事が出来ず、渚にアイフォンの光でその場所を照らして貰う事で解錠し、中へと入った。 電気をつけて、部屋の内装をチェックする。 そのアパートの部屋の構造はワンルームのキッチン付きであり、部屋へと続く廊下の左側には台所があり、右側には風呂場とトイレでバラバラに別れていた。 「お邪魔します……」 ……靴を脱いで廊下へと上がる渚の姿を見届けた後、今度は一番肝心な奥の部屋を確認する。 七畳ぐらいの部屋の床には畳が敷かれており、クローゼットは無いがその代わりに押し入れが備え付けになっている。 本来は独り暮らしをする為の部屋なのであろうが、二人で横になって寝るには充分な広さであった。 紐でつく部屋の灯りを点灯し、部屋の端に俺達はそれぞれの荷物を置いた。 「アパートで寝泊まりするなんて……あたし初めて」 「千葉の家は一軒家なんですか?」 「うん……でもこっちの方が、居心地が良さそう」 一体渚の実家で何があったのか……それは後で聞くとして、彼女は眠たいのか、備え付けの折り畳み式のテーブルに項垂れていた。 「お腹すきましたか?」 「うん……」 「ではご飯を作るので……貴女は先にお風呂に入ってきてください」 「……分かった」 そうして眠たそうな目をごしごしと擦りながら、渚はとぼとぼと風呂場へと向かった。 風呂場内には脱衣所のスペースは無く、彼女が服を脱ぎ終わるまで奥の部屋で待機をする。 「脱いだ服洗濯機に入れとくね?」 「はい」 ドア越しから渚の声が聞こえてきて、彼女が風呂場に入り、シャワーの音が聞こえてくるのを確認した後に台所へと向かう。 ……今日の晩飯は焼きそばだ。 事務所から持ってきたフライパンに油を敷き、野菜炒めを作る工程から麺を投入していく。 「……」 すぐ後ろで、たった一枚の半透明な壁を隔てて、全裸の中学生がシャワーを浴びているという現状。 つい数時間前に初めて会ったばかりの為に、妹である実感が湧かず、彼女を一人の女だと認識してしまう。 ……駄目だ駄目だ。 中学生相手に何を欲情しようとしている。 それに俺には恋人だっているんだぞという、その者が怒っている顔を浮かべながら、俺は頭を横に降って欲情を脳内から振り払った。 「お兄ちゃん」 その時、後ろから俺の名前を呼ぶ声がした。 「……何ですか」 「あたしの荷物の中にさ、シャンプーとか一式が入ってるポーチみたいなのがあるから、それ取ってくれない?」 「……分かりました」 最初から持って行け。寝ぼけてんのかと心の中で文句を言いながら、ソースを入れる段階へと入る前に火を止めて部屋へと向かう。 長方形でアウトドアと書かれた、彼女の黒いリュックサック。 着替えの服やらが入った一番大きなファスナーの中に、それは入っていた。 恐らく下着だと思われる物を直視しないように、それだけを取り除いてファスナーを閉める。 ……思えば彼女は、着替えもタオルも持っていない状態で風呂場へと向かっていた。 ついでにバスタオルを俺の鞄から取り出し、渚の鞄ごと風呂場の扉の傍へと持っていく。 「これですか?」 「ありがと」 台所の方を向きながら、彼女にシャンプーセットが入ったポーチを手渡す。 風呂場の方から湯気と共に漏れてくる温かい空気。 「貴女の着替えはそこに置いてきました。 バスタオルもそこにある筈です」 「ありがと」 風呂場の扉が閉まる音が聞こえ、渚の気配が扉に遮断されるのを感じたと同時に、そっと溜息が出る。 ……何だかんだあって焼きそばは完成した。 二つの皿に盛り付け、部屋に戻ろうとそれらを持ちながら風呂場の方へと振り返った次の瞬間━━━ 「……あの、せめてタオルとかで隠して出てきてください」 ……風呂場の扉が開かれ、タオルで髪を拭いている全裸の渚の姿を見てしまった。 パーカー越しからでも分かっていた、中学生とは思えない豊満な胸。 ……しかし、女性器周りに生えている陰毛はまだ生えかけの状態であり、彼女の身体は未だに未成熟である事を意味していた。 「別にいいじゃん、兄妹なんだし」 ……だが当の本人は羞恥心を抱いておらず、服を着るからどいてほしいと言わんばかりの、迷惑そうな顔を俺に対して浮かべていた。 「この際兄妹とか関係無いですよ……とにかく早く服を着てください」 渚の裸体を直視しないように、彼女から逃げるように部屋へと戻る。 「……見たくなきゃ、直接見なきゃいいじゃん」 先程ついジロジロと見てしまったのがバレていたのか、渚からの指摘が心に刺さりつつ、先にテーブルを拭いてからそこに焼きそばを置く。 「美味そうな焼きそばだね」 それから白いパジャマ姿に身を包んだ彼女が廊下から戻り、片方の焼きそばの前に腰掛けた。 「もう食べていいの?」 「はい、頂きましょう」 「いただきまーす」 割り箸を渚に渡して、彼女と深夜の晩飯の時間を共にする。 頬を膨らませながら、俺の作った焼きそばを食べる渚…… 「美味しい……お兄ちゃん、料理上手なんだね」 「焼きそばぐらい、誰でも作れますよ」 「ふふっ、喜べばいいのに素直じゃないね」 数年ぶりに過ごす、血の繋がった家族との食事の時間。 あんな事があったが、事務所で暮らしていた時よりは充実した毎日が過ごせるだろうと確信した瞬間であった。 ……しかし、いつまでも彼女をここに置いておく訳にはいかない。 「……千葉の家で何があったんですか」 「……」 俺がそう質問をすると、渚は焼きそばが残り半分以下の所で箸を止めて、暗い顔になりながら下を俯いた。 「最近、お父さんとお母さんがケンカばかりしてるの……」 「……」 「それが毎日続いてて……ウザったいから、逃げて来ちゃった」 「ケンカの原因は何だか分かりますか?」 「お父さんの浮気みたいな感じだった……」 「……」 あの親父はまた浮気をしているのか。 一度浮気をした者は、何度でもそれを繰り返すという事なのか。 本当は実家で落ち着きたいだろうに、どれ程に辛く、悲しい想いで俺の所まで逃げ出してきたのか……それは渚の前髪に隠れた死にそうな目が全てを物語っていた。 「……前の家でも、その人は浮気をしていました」 「……そうなんだ」 「そして挙句の果てには……俺と母親を捨てて、今の貴女の母親と逃げてしまう始末です」 「なんか……ごめんね」 「貴女が謝る必要は無いですよ」 「うん……」 「……お互い、最低な父親な所に生まれてツイてないですね」 「うん……」 依然として悲しそうな顔をしている渚であったが、彼女の目から涙が溢れてくる事は無かった。 いつからか夫婦喧嘩が絶えない、仁藤家の家庭環境に順応してしまったのだろう。 「……とりあえずご飯食べちゃってください」 「分かった……」 悲しい話題を出してしまった為に、自ら幕を閉じて渚に焼きそばを食べさせる。 「お兄ちゃんも家出してきて、ここに来たんだよね」 「なぜそれを……」 「ほら、さっきのおば……お姉さんが、お兄ちゃんと同じだね。 みたいな事言ってたじゃん」 「……ああ、そうでしたね」 「てか……お兄ちゃんとあのお姉さんってどんな関係なの?」 「あの人は……俺の仕事先の上司であり、先程も言いましたが俺の育ての親みたいな人です」 ……その時、忘れそうになっていた、渚に聞きたかった最も重要な質問を思い出した。 「……どうして俺の居場所が分かったんですか」 「ああ、それはね……」 最後の一口を頬張り、箸を置いて頬を動かしながら、こちらに掌を見せて待ってて欲しいという合図を出した後……渚は焼きそばを飲み込んで口を開いた。 「お兄ちゃん、さっきの黒百合の使徒っていうお店に、ほぼ毎日来てるんでしょう?」 「……はい」 黒百合の使徒……俺が歌舞伎町で活動し始めるようになってから、真緒さん達が黒百合に集まるようになってから、確かに店側からしつこいと思われそうな程に毎日来ている。 「……その時にね、お父さんの知り合いが、そのお店に行った事があったみたいなの」 「その知り合いの人はお兄ちゃんの写真を見た事がある人で……それからお父さんに知らせたんだと思う」 「その黒百合の使徒にお兄ちゃんがいるっていう話を……あたしも聞いてたんだ」 「……そういう事ですか」 つまり親父は、俺がヤクザとして活動して間もない頃から、俺の居場所を知っていたという事だ。 黒百合には俺達の面子以外にも、これまでに様々な新規の客達が訪れていた……その中に、親父の知り合いとやらも偶然に紛れていたのだろう。 しかし……肝心の本人は今までに一回も俺の前に姿を現さなかった。 どのように金を稼いでいるのかも知らない仕事で忙しかったのか……或いはそれ以外の理由か。 まぁ今更になって……俺の方もあんなクズ親父には会いたくない。 ……それにヤクザとして落ちぶれた姿を、親父なんかの前に晒したくないのだ。 「お兄ちゃん……?」 「……いえ、なんでもないです。全部食べましたね?」 「うん」 「お皿を洗ってきます」 もう会う必要が無い人間の為に、これ以上神経を減らして考える必要も無い。 それに今は渚がいる。 これから彼女の為に何が出来るか……その事を考えながら、俺は台所に行って皿洗いを開始した。 「手伝うよ」 「いやいいです。 二人で並ぶと台所が狭くなるので」 「んぅ……」 自分の気遣いを跳ね返されると、渚は頬を膨らませながら畳に横たわった。 何かの文章でも打ち込んでいるのか……スマホの画面に密着している、彼女の両手の指が素早く動く。 「誰かとラインでもしてるんですか?」 「なーなだよ。これから宜しくねだって」 「飯田さん……まだ起きていらっしゃったのですね」 「……今日で四人もお友達が出来ちゃった」 知らない地で友人が出来たのが嬉しいのか、スマホを両手で持ったまま胸に置いて、天井を見つめながら微笑んでいる渚。 「男の人のお友達はいないの?」 「……そういえばいないですね、皆女性の方です」 「ふーん、そしたらお兄ちゃん、ハーレムじゃん」 「そうですね」 今いる恋人以外とは、当たり前だが絶対に浮気はしない。 俺は親父のようには……絶対にならない。 「お兄ちゃんあの中で、誰かと付き合ってたりする?」 そのような事を思っていると、唐突に渚から飛んできた質問に、洗剤で洗っている途中の皿をシンクへと落としそうになる。 「何ですか急に……」 「だってさお兄ちゃん、あのお姉さん達とお話してる時、凄い楽しそうだったんだもん」 「お姉さん達の方も楽しそうにしてたし……あれって完全に誰かと付き合ってるよね?」 「どういう事ですか……」 「それで……あの中で誰か付き合ってる人いるの?」 「……まぁいますが」 「ええっ!?」 身体を起こし、こちらに駆け寄ってきた渚。 「うるさいですよ、もうすぐ明日になるんですから静かにしてください」 「お兄ちゃん、あのお姉さん達の中で誰が好きなの!?」 急遽始まった恋話に、先程の暗い話題とは打って変わって、渚は饒舌になりながら目をキラキラとさせていた。 「ねぇ誰? 誰が好きなの?」 しまいには俺の腕を揺すり、皿洗いしているのを邪魔する始末だ。 「貴女には関係ないですよ……」 「だって気になるんだもん。 皆には秘密にするから教えて」 「……」 ……こうなれば俺が素直に答えない限り、渚を大人しくさせる事は出来ないであろう。 なので仕方無く、俺は渚に現在交際している、恋人の名前を教えるのであった…… ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「ふーん、ふーん……」 ……恋人の名前を知った渚は、俺の方ににやにやとした笑みを浮かべながら、畳の部屋へと戻っていった。 「お兄ちゃん……ああいうお姉さんが好きだったんだね〜」 「ああいうのとか言わないでください。 失礼ですよ」 「ごめんごめん」 恋人とは、どんなに辛い人生をも乗り越えていけそうな気になれる、エネルギーを分け与えてくれる存在だ。 その者がクリスマスに彼女になってからは……人生観が変わり、彼女の笑顔を見る事で、辛い出来事があっても、これまでに何度も心を浄化させてもらってきた。 「それで……どこまでいったの?」 「どういう事ですか」 「ほら手を繋いだりとかさ、キスしたりとかさ……」 「……」 またもや良からぬ事を考えているのがバレバレな、不適な笑みを浮かべている渚。 中学生といえば思春期が真っ盛りな時期……人の恋愛事情が気になってしまうのは、仕方が無い歳なのであろう。 「まぁ……しました」 「じゃあ……エッチもしたの?」 「は?」 しかしその質問までいくと、性欲を持て余している男子中学生のレベルまで達してしまうのでは無いか。 この小娘は本当に女子の方の中学生なのか? 「……揶揄わないでください」 「ううん、応援してるよ」 「そうなんですか?」 「うん」 それから渚の笑みは、優しそうな物へと変わっていった。 「もしかしたら、将来そのお姉さんと結婚するかもしれないじゃん?」 「……はい」 「そしたら、二人の間に赤ちゃんが生まれて……」 「あたし達なんかよりも、余っ程幸せな家庭を築いていってね」 「……」 俺が頷くと、渚は儚げな表情を浮かべながら、俺から腕を離して畳の部屋へと戻っていった。 「貴女は……彼氏とかいるんですか?」 「いないよ。 いたらそっちに行ってるもん」 「それもそうですよね」 「……それに、あたしになんか彼氏は出来ないし、作るつもりもないし」 「今の所は……こうしてなーなとかとラインしてる方が楽しいかな」 「そうですか……」 恋人はいつでも作れるという事で、彼氏を探す事よりも、友人である真緒さんや飯田さん達と遊ぶ事を優先させた渚。 居心地が悪かった仁藤家から解放された事で、自由になったのが嬉しいのか……否定的な言葉も口にした渚であったが、彼女の自信満々の笑顔は希望に満ち溢れていた。 ……そして渚の笑顔に、俺も微笑んだ所で皿洗いが終了した。 「……じゃあ俺も、お風呂に入ってきます」 「うん、行ってらっしゃい」 「先に寝ていますか?」 「ううん、まだ眠くないから起きてるよ」 「分かりました」 着替えが入っている俺の方の鞄を持ち、廊下へと向かって畳の部屋との境にある扉を閉める。 服を脱いで洗濯機に入れる……明日は洗濯用洗剤など、色々と買ってくる必要がありそうだ。 そう思いながら俺は風呂場に入り、日中に流した汗を疲れと共にシャワーで流すのであった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「おかえり」 ……風呂から上がり、服を着て畳の部屋に戻ってくると、宣言通りに渚はスマホを弄りながら起きていた。 「……布団敷いていてくださったのですね、ありがとうございます」 「うん、兄ちゃんはどっちで寝る?」 「どちらでもいいですよ」 「じゃああたしはこっちにしよ」 そう言って渚は、押し入れの方に敷かれている布団の上に横になった。 その間に俺はシャワーを浴びている時から考えていた、ある事を実行しようとしていた。 部屋の端に置いてあるボストンバッグの元に行き、その中身を開ける。 「わぁ〜何それ〜」 その様子を見ていた渚は、四つん這いで起きながらバッグの中身にあった物を俺から受け取ろうとしていた。 「可愛い〜」 その中身とは首に黒いリボンが巻かれているテディベア……それを渚に手渡すと、彼女はテディベアを抱きしめながら幸せそうな表情を浮かべた。 「兄ちゃん男のくせに、テディベアなんか好きなんだね」 「それは……先程貴女もお会いした、俺の親から昔にプレゼントされた物なのです」 「お姉さんから……そうだったの?」 「はい……一緒に寝たりはした事が無かったのですが、折角なので連れてきました」 「確かに昔って割には綺麗だよね〜……大丈夫だよ。あたしが代わりに一緒に寝てあげるから」 そうして渚はテディベアに話しかけながら、自身の布団(テリトリー)へと戻って行った。 本当に一緒に寝る気なようで……これは明日の朝になるまで返してくれる事は無さそうだ。 「……電気消しますよ」 「うん」 それから渚の許可を取り、電気を消す。 外は曇っていた為に、今日は月が顔を出しておらず、部屋に光も入ってこないので、消した途端に部屋は真っ暗だ。 布団らしき感触のものを足で踏みつけて確認し、その場に横になる。 「……兄ちゃんってさ」 「なんですか?」 「何で敬語なの?」 「……」 「……もしかしてあたしの事が、まだ自分の妹だって信じてない感じ?」 「そういう訳では……すみません、子供の頃からこういう話し方で育てられてきたので、それが抜けなくなってしまっただけです」 「ふーん……まぁいいや。 おやすみ兄ちゃん」 「はい……」 暗くてよく分からなかったが……寝返りをうって、渚が押し入れの方に向いてしまったのだという事は分かった。 四月の夜……春になったとは言え、まだまだ寒い日が続き、体にかかっている毛布を徐々に頭の方へと被せていく。 ……だが周りには毎晩のように鼾がうるさかった兄貴達はいない。 それだけでも贅沢だ。 ……しかし、完全に自由になった訳ではなく、俺が皇組の中に所属している限り、斬江に繋がれている見えない首輪は取れる事は無い。 そう思いながら俺は、アイフォンのアラーム機能から六時半にセットした。 「……兄ちゃん」 すると、いつの間にかこちらに寄ってきていた渚に、後ろから寝ている状態のまま抱き締められた。 「……どうしたんですか」 俺の背中と渚の胸の間に、あのテディベアの毛並みの感触を感じる。 「こうしたまま……寝ていい?」 寂しそうな渚の細い声。 テディベアを抱き締めながら寝てみたのはいいものの……やはり生きている者に寄り添って寝ていなければ、安心出来ないのだろうか。 「……いいですよ」 断る理由は無い。 兄貴らしさというのは分からないが、日頃から瀬名さんの相手もしている為に、歳下の扱いには慣れているつもりだ……ここは素直に、妹の要求に応えよう。 「ありがとう……」 俺の背中に額らしきものを押し付けてくる渚。 彼女にとっては、例え初対面だとしても信用出来る家族が俺しかいないのであろう。 逆もまた然り……もういないのと同然に思っていた家族が、実は存在していたという嬉しさが徐々に混みあがってくる。 「……兄ちゃん」 ……それから俺も渚の方へと振り返り、彼女を抱き締めた。 「……俺の方も、このままでもいいですか?」 「いいよ」 俺の首元ぐらいまでしかない渚の身長。 その小さな身体で、今までどのような茨だらけの道を歩んできたのだろう。 「少し苦しいよ兄ちゃん……」 「ああすみません……」 「別にいいけどさ……ふふっ、これじゃあどっちが歳上だか分からないね」 そう微笑みながら、渚は俺の頭を撫でてきた。 女子中学生から頭を撫でられるヤクザ……他人から見れば、ただの危ない光景だ。 「あたしとイチャついてたら、彼女さんに怒られちゃうんじゃない?」 「イチャついてるつもりは無いです……兄妹なら関係ないのでしょう?」 「はいはい」 「おやすみなさい……渚」 「!……今あたしの事、初めて名前で呼んでくれたね」 「はい……渚」 「ふふっ……おやすみなさい、お兄ちゃん」 その言葉を最後に、渚を寝息を立てながら眠りに入った。 こうして今日、初めて会った妹と、初めてアパート暮らしを経験した一日を終えようとしていた。 明日はどんな事が起きるのだろう……そう思いながら睡魔に身を任せ、徐々に重くなっていく瞼を閉じていった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ……翌朝。 意識が無くなったと思ったら、目覚ましが鳴って朝はあっという間にやってきた。 「くっ……」 目覚ましを止めて、毛布の温もりを名残惜しみつつも身体を起こす。 「すー……すー……」 寝ている最中に寝相を変えたのか、渚は自分の布団で大の字で寝ていた。 「起きてください」 「んぅ……もう朝?」 「はい」 「……まだ六時半じゃん」 「朝ごはんを食べに行くんです」 「別にお腹空いてないよ」 「昼夜食べなかったとしても、朝はしっかりと食べた方がいいです。 ほら起きてください」 「んぅ〜……」 嫌そうな顔をしている渚に布団から離脱させて、布団を畳んで押し入れへとしまい、いつものスーツ姿へと着替える。 「じゃあ俺は外で待っていますから、渚も早く着替えてきてください」 「うん……」 部屋自体を渚の更衣室にする為に、扉を開けて外へ出る。 今日もいい天気だ。 出た途端、日光の眩しさに目が細められる。 「お待たせ〜」 暫くしてから渚も外へと出てきた。 「電気とか全部消してきましたか?」 「大丈夫だよ」 「はい」 そして鍵を閉めて、隣人達の扉の前を通り過ぎて路地に出る。 夜と朝とでは全然違う、アパート周辺の住宅街の景色。 飯田さんの住んでいる地域と同じように、迷路であちこちに曲がり角があり、暫くは地図アプリに頼らなければ帰ってこれなさそうだ。 「どこ行くの?」 「コンビニです。朝ご飯買ってあげますよ」 「やった」 制限時間は残り一時間弱。 それまでに斬江から昨晩に言いつけられていた、集合場所である歌舞伎町の事務所へと向かう。 ……それから県道四三三号線にあるコンビニへとやってきた俺達。 その場所から南の方へと向かい、県道三〇二を越えれば歌舞伎町に到着する。 「何買うんですか?」 「うーんとね……」 出勤前の社会人達で賑わう店内……おにぎりや弁当が並ばれている棚の前で、どれを食べようかと渚は腕を組んで迷っていた。 「これとこれとこれと……あとこれも食べようかな」 「そんなに食べるのですか……」 渚が買い物籠の中に入れたのは、五百円ぐらいのコンビニ弁当……そして、サンドイッチとおにぎり二つだ。 どんなに食欲があっても、俺はコンビニでそのような量までは食べた事が無い。 「まぁ今は育ち盛りだし、仕方ないね」 手を腰に当てて胸を反らしている、渚の育ち盛りという単語が相まって、今日もパーカーを着ているが、形が丸分かりになっている胸に目がいってしまう。 身長が伸びない分、胸に全部栄養がいったという事なのだろうか。 「まぁ貴女、背が低いですからね」 「むっ、失礼しちゃうなぁ」 それから俺の今日の朝飯であるおにぎりを一つ籠に入れて、頬を膨らませて怒っている渚の頭をぽんぽんと叩きながら、列に並んで会計を済ませる。 「ホットコーヒーのSサイズをお願いします」 「畏まりました」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ……その後店から出てきて、俺の分のおにぎりだけを出し、それ以外の飯が入っているレジ袋を渚に手渡した。 「渚は……今日はどうするんですか?」 四三三号線を通る車達を見送りながら、彼女の今後の予定について話し合う。 「うーん……とりあえず家に帰ろうかな。 まだ眠いし」 「それがいいです。あんまり外には出歩かない方がいいと思うので」 「お兄ちゃんはいつお仕事が終わるの?」 「夕方ぐらいだとは思いますが……日によって違います」 「じゃあお仕事終わったら迎えに行ってあげるよ!」 「やめと……いや、分かりました。終わったら連絡しますね」 「うん!」 事務所まで来させるのはまずいと思ったが、俺が歌舞伎町から出た状態で連絡を入れれば問題ないであろう。 「渚が来たら、そのまま買い出しに行きますから」 「分かった」 「家の鍵は渡しておきます。失くさないでくださいね」 「うん」 「……では、俺はそろそろ行きます」 おにぎりを食べ終わり、コーヒーも飲み終えてゴミ箱に入れる。 腹も膨れて、喉も潤せた……これでいつでも戦闘態勢に入る状態となった。 「行ってらっしゃい、頑張ってね」 「はい」 渚に手を振られて歌舞伎町へと向かう…… 誰かに見送られながら仕事に行くという新鮮さ。 この気持ちを、これから毎日のように思えるとなると何て幸せなのだろう……。 「帰り何かお菓子買ってきてね〜!」 「まだ食べるんですか貴女……」
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