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第八章『それぞれの未来へ』
……去年の冬から日雇いの仕事ばかりしていた俺の仕事は、今年の春からになって変わった。
皇組に入り、代紋のバッジをスーツの胸ポケットにつけ、正式なヤクザになってから早一年……少しは出世できたという事か。
ヤクザの本業といえば、詐欺、麻薬販売、風俗店経営など……殆どの物が法に触れている犯罪行為で金を稼いでいるイメージがあるだろう。
しかし暴対法という法律により縛られて……俺が知る限りでの皇組では、そういう裏のシノギをしている所は見た事が無い。
……しかし本当はしているのだろうか。
だとしたら今の俺には、その現状を知る程の地位までは辿り着いていないという事か。
昨日の集金のように、組織に関係しそうな仕事はさせて貰えるようにはなったが……大量の金が動くシノギは、流石にまださせてもらえない。
……だが別に、こちらとしてはしなくてもいい。
むしろしたくない。
しかし自分自身がそう思っていても、所詮俺は斬江の犬……どんな命令を受けても、子供の俺に拒否権は無い。
いつかは斬江に……人を殺せといった命令が下される時が来るのだろうか。
そして今日も……俺は斬江の命令によって、日雇いとは違う別の仕事をしていた。
「……いらっしゃいませ」
「味噌ラーメン一つで」
「ありがとうございます」
……その仕事とは、ピンク通りでのラーメンの屋台の営業だ。
風俗店が立ち並ぶピンク通り……夜はキャバ嬢やら風俗嬢やらの客引きが凄いが、日中は社会人達の通り道となる。
別に歌舞伎町内で大きなイベントがやっている訳でも無いが……意外と客は寄ってくる。
「お待たせしました。 味噌ラーメンです」
「……」
……俺の作ったラーメンを啜っているサラリーマン達の目が死んでいる。
己の私情を殺して、金を稼ぐ事しか考えていなさそうだ……ご苦労様である。
「……醤油ラーメンで」
「ありがとうございます」
集金の次は、全く関連性の無さそうなラーメン屋の屋台だと……?
斬江は俺に何をさせたいのか……その本当の目的が分からないまま、次々とラーメンの麺を茹でていく。
ただ性格や趣味、仕事に関して何の取り柄も無い俺だが……料理だけは自信がある。
部屋住み時代……組に入ったばかりの頃に、花道通りにある事務所で暮らしていた時期に、料理当番として、姑のように味がうるさい兄貴達に、散々鍛えられていたからだ。
その中の一人には、塩分濃度や糖分濃度に少し差があっただけで、よく殴られたりしていた。
お陰様で料理が得意になった……というよりは、料理を強制的に得意にさせられたと言った方が正しいのかもしれない。
今日はこの仕事を八時間。
八時半から開始して、あと二時間やれば店を移動させながら休憩をする事が出来る。
とっとと終わらせて、今頃家でゴロゴロとしていると思われる渚に連絡を入れてやろう……
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十三時半……休憩が終わり、屋台を引いて今度はゴールデン街へとやってきた。
場所が変わると客層も変わる。
ゴールデン街は歌舞伎町よりも年齢層が高い者達が集まる……今も俺の屋台では、二人の老人がラーメンを食べながらワンカップを飲んで雑談をしている最中である。
偶に若い者達もその場所に訪れたりするが、それは歌舞伎町の方も賑わい出す十八時頃からである。
今はまだ日も高く、暫くの間は午前中のように客が溢れ返る様子も無い。
「兄ちゃん、お勘定」
「はい、千円です」
「丁度ね」
「ありがとうございました」
遂には屋台の席に人がいなくなった。
穏やかな春風が通り過ぎるゴールデン街……
何て平和で退屈な時間なんだと思っていると……
「あ、お兄ちゃんだ」
その平穏をかき消すように、家にいると思っていた渚が俺の横に姿を表した。
「え……」
俺の姿を捉えるや否や、暖簾をくぐって客席に座った渚。
「お兄ちゃんこんな所でお仕事してたんだね〜、探したんだよ?」
渚は黒いバンダナに黒いエプロン姿の俺を見て、どのような仕事をしているのかを理解したようだ。
屋台イコールヤクザのシノギである事までは理解していないだろうが、そもそも関連性自体何も無いのだが……俺の仕事ぶりを歌舞伎町内で見られると色々とまずい。
「貴女……お家にいるのでは無かったのですか」
「だってお腹空いたんだもん」
「あれだけ食べてまだ食べるんですか……」
「毎日ちゃんと三食食べなきゃだめだよ」
思えば今は昼飯時……渚に朝飯を買ってやったのが一時間前のような感覚だ。
それ程時間が経つのを忘れて、ラーメンを作って売る事に集中していたのだろう。
……まぁ、家で何か事故を起こされるよりも、こうして目の前で見守る事が出来るだけでも安心か。
「仕方が無いですね……ラーメン奢りますよ」
「ありがと」
俺がそう言った瞬間に、特に申し訳なさそうな態度を取るわけでもなく、にんまりと笑いながら礼を返した渚。
最初から俺に飯を奢らせるつもりでここに来たのだろうが……空腹で苦しそうな姿を見せられるよりは何倍もマシであろう。
「じゃあ……味噌ラーメンで」
「……畏まりました」
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【昨晩の渚からの恋人の質問に対して"千夜さん"と答えた場合】
「……頂きまーす」
「はい」
……それからラーメンが出来上がり、目の前に味噌ラーメンが出されるや否や、渚は息で麺を冷ましながら食べ始めた。
「んぅ〜、おいしい」
麺を噛み締めながら、膨らませている渚の頬がぽっと染まる。
「そうですか……良かったです」
「流石にお店を出してるだけのレベルではあるね」
「何か上からですね……」
「もう屋台じゃなくて普通のお店として営業していけば?」
「普通のお店、ですか……」
出せたは出せたとして、こんなヤクザがラーメンを作っていると知れば、誰もその店には来たがらないであろう。
ならば極道を辞めてヤクザからカタギに戻ったとしても、現状は変わらない。
例えそれらしい事は何もしていなくても……組の代紋をつけて街を歩き、ヤクザをやっていたという経歴は、死ぬまで一生に消える事は無いのだ。
「……そこまでは上手くは、ラーメンを作れる自信は無いです」
「ふーん、謙虚なんだね」
「どうでしょうね」
再度ラーメンを啜る渚。
スープが溢れそうになるぐらいに大盛りに作った筈なのだが、丼の中身が残り半分を切ろうとしていた。
どれ程腹が減っていたのか……。
成長期真っ盛りの、運動部に所属している者並の食欲を持つ渚を、これから養っていくのは大変だろうと思っていたその時……
「大和くん……?」
先程右隣から現れた渚とは違い、今度は左隣から白いワンピースを着ていた千夜さんが現れた。
ゴールデン街で遭遇するのは初である彼女は、片手を胸に当てながら、俺がラーメンを作っている調理場の光景を不思議そうに見つめていた。
「千夜さん……何故ここに」
「あっ、ちーちーだ。 やっほー」
「渚ちゃんも、こんにちは……」
渚が千夜さんに手を振ると、彼女も微かに微笑みながら、渚に手を振り返した。
「美味しそうな匂いがすると思ったら……ラーメンを作っていたのね……」
「はい……とりあえず、お座りになっては?」
「お邪魔します……」
「こっちこっち」
いつの間にかラーメンを完食していた渚は席から立つと、千夜さんの手を引いて客席まで案内をした。
「今日はどうしてこちらに……千夜さんが一人で外にいらっしゃるなんて珍しいですね」
「おつかいの帰りよ……ブルちゃん、今日の晩御飯はカレーにするって、言ってたから……」
そう言っている千夜さんの持っていたトートバッグには、玉ねぎやらジャガイモなどの食材が入っていそうな様々な膨らみを帯びていた。
「カレーか……いいなぁ、何だかまたお腹が空いてきたかも」
「まだ食べるんですか……」
「渚ちゃんは、結構ご飯を食べる方なの……?」
「そうなんだよ〜、食べても食べてもすぐにお腹が空いちゃってさ」
「ふふっ……」
拳を手に当てて、まるで自分の妹を扱うかのように微笑む千夜さん。
日頃から他の女子達の中では一番に仲が良さそうな瀬名さんの面倒を見ているだけあって、もしも千夜さんと結婚する事があれば、渚とはいい義姉妹になってくれそうだ。
「折角なので、長内さんも何か召し上がっていってください」
「いいの……?」
「はい、晩ご飯まではまだ時間もあるでしょうし……一杯ぐらいなら奢りますよ」
「ありがとう……」
「じゃああたしもお代わり!」
「貴女はもうお水だけで我慢していてください」
「ええ〜」
千夜さんに工程を見られながら、ラーメンを茹でていく……
今まで黒百合の店員としての彼女に、料理を何回か食べさせて貰った時があったが……今度はそれぞれが逆の立場となり、俺が客としての千夜さんに料理を食べさせる番が来た。
初対面の客達にラーメンを作っていた時よりも、事務所で兄貴達に料理を作っていた時よりも緊張してきた……
「ちーちーもお料理得意なの?」
「得意かどうかは、分からないけれど……一応、できるわ……」
「今度食べに行ってもいいかな!?」
「うん……お店が空いてる時なら、いつでも待ってるわ……」
その緊張を解してくれるかのように、千夜さんは目が合う度に優しそうな顔で見守ってくれていた。
……それからラーメンが完成し、それを千夜さんの前に恐る恐る差し出した。
「……どうぞ」
「……」
ラーメンの湯気に当てられながら、その中身をじっと見つめている千夜さん。
「頂きます……」
それからパチっと割り箸を割り、彼女もラーメンを啜り始めた。
千夜さんの方をあまり直視しないように、渚の空になった丼を洗いつつも、千夜さんの食べている様子を視界に入って心臓の鼓動が早くなる。
「どう?」
渚もカウンターに肘をつきながら、啜り終わって麺を噛み締めている千夜さんと目を合わせていた。
「美味しいわ……」
千夜さんがその一言を述べた瞬間に、俺はそっと溜息をついた。
良かった。
しかし千夜さんは優しい性格をしているので、ラーメンが自分の好みの味では無かったとしても、気遣って美味しいと言ってくれたのかもしれない。
「本当ですか?」
「うん……私、油っこい物は好きでは無いけれど……これなら食べやすいわ……」
「そうですか……」
「というよりも、大和くんが作ってくれた料理なら……何でも美味しいかも……」
「千夜さん……」
こちらを見て微笑んでいる千夜さんから目が離せない。
「ひゅーひゅー」
お互いに目を合わせているその光景が、渚にはイチャついているように見えたのか、暇そうにしていた彼女は俺達に茶々を入れてきた。
「うるさいですよ……渚」
「渚ちゃん……恥ずかしいわ……」
「お兄ちゃんがいつもお世話になってます」
「いえいえ……こちらこそ……」
急に態度を変えてお辞儀をした渚に、千夜さんも慌ててお辞儀を返す。
「こんなお兄ちゃんだけど、宜しくしてあげてね」
「う、うん……」
「何がこんなですか……」
それから麺を啜り、スープを飲み終わって、千夜さんもラーメンを完食した。
「ご馳走様でした……」
「はい……お粗末様でした……」
「とても……美味しかった……伊豆の時でもそうだったけど、大和くんは……本当に料理がお上手なのね……」
「そんな……千夜さん程では……」
「これならきっと……もしも二人でお店を経営する事になったら……大和くんと一緒に、美味しいご飯を作れると思う……」
「千夜さん……」
千夜さんの将来の夢……それは育ての親であるブルヘッドさんの元から独り立ちをして、自営業でレストランを経営する事だ。
去年の夏、皆でブルヘッドさんの実家である旅館に働きに行った時……千夜さんは俺にそのように話してくれた。
今の彼女は何だか俺に気を遣っているような態度だが……もう俺は千夜さんの物だ。
俺自身も、もしかしたら本当に千夜さんと共に働けるのだろうかという期待を思いつつも、千夜さんとレストランを経営しているビジョンが見え始めてきている。
「?」
その時には渚はおらず、何があったのか分かる筈も無い彼女は、俺達を交互に見ながら不思議そうな顔をしていた。
「伊豆の時って何のこと?」
「ああ……私ね……」
……そんな渚に対して、千夜さんは簡単に俺達で話し合ったこれまでの事を説明した。
「おーっ、いいじゃんいいじゃん!……でも兄ちゃん、さっき料理を作る自信が無いとか言ってなかったっけ」
「え……? こんなに美味しいのに……」
「自信が無いのは……ラーメンの事です。まぁ俺も、今後の為に勉強するつもりですよ」
「そうなの……?」
「はい……どのような物でも、千夜さんとお料理がしたいですから……」
「大和くん……ありがとう……」
……しかし、ただ料理が上手くなれば千夜さんに雇って貰えるという訳では無い。
まず俺はヤクザ……カタギに戻る以前に、俺はまだ斬江に借金を返している身だ。
それを達成しなければ、歌舞伎町の外にすら出る事は出来ないが……あまり千夜さんを待たせる訳にはいかないし、まだ彼女にはその事を話せていないのが現状だ。
……とにかく今後は斬江に、俺が千夜さんと共にこれからしていきたい事をどうやって認めさせていくかが課題となってくる事だろう。
「それじゃあ私は、そろそろお店に帰らないといけないから……」
「あぁ、お使い中でしたね。すみませんお呼び止めしてしまって」
「ううん、美味しかった……」
そう言って席から立つと、千夜さんはトートバッグから財布を出した。
「お金なんていらないですよ……奢らせてください」
「あ……そっか……本当に、いいの……?」
「はい……今まで散々黒百合でご馳走になってきたので、そのお礼だと思っていただければ」
「分かったわ……ありがとう……」
そうして席から立ち、暖簾を潜って外に出ると、千夜さんは歌舞伎町の方へと戻って行ったのである。
「ばいばーい!」
「うん、ばいばい渚ちゃん……あっ……あと今日は、黒百合は定休日だから……」
「ええっ!? そうなの!?」
「そういえばそうでしたね」
「うん……だから大和くんも、また明日ね……」
「はい、お気をつけて……」
今度はいつ千夜さんに、俺の料理を食べさせる時が来るのであろうか。
その時が来るまでに、渚にご飯を作ってやる事で、料理を練習しようと思った仕事中であった。
「ちーちーの作ったお料理か〜……いいなーお腹すいたなー」
「ラーメンはもうダメですから」
「ええ〜」
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【昨晩の渚からの恋人の質問に対して"真緒さん"と答えた場合】
……それから合計八時間もの勤務はあっという間に過ぎ、結局あの場に渚以外の若い客は来る事は無かった。
「何円儲かったのー?」
「六万円ぐらいは売れたと思います」
「それって凄いの?」
「多分……百杯以上はお客さんに売っている訳ですし」
「ふーん」
現在、店を閉めるまでに屋台に居続けた渚を連れて、売上金を斬江に渡しに行こうと事務所へと向かっている最中だ。
「にしても歌舞伎町って、結構普通の人も沢山歩いてるんだね」
「どういう意味ですか?」
「ほら歌舞伎町ってさ、何か怖い人達が沢山いるっていうイメージがあるじゃん?」
「……見つけたとしても、絶対に目を合わせたりしてはいけません」
「はーい」
「てか世の中には、外見がそうじゃなくても中身が極悪人な人は沢山いますから……絶対にそういう人とは、関わらないようにしてください」
「わかってるって」
……そもそもお前の隣にいる俺が、ヤクザという極悪人達が集まるような団体の一人だ。
その事はまだ渚に伝えられていない……。
その話をいつになったら彼女に切り出そうか……。
「あっ、真緒ちゃんだ」
「えっ……?」
そう思っていると、渚は屋外喫煙所でタバコを吸っている真緒さんを発見した。
「……ん、お前達か」
有害な物であると分かっていても……このストレス社会を乗り越える為に、人々はタバコを吸おうと喫煙所に集まる。
普通の社会人よりも更にストレスが溜まると思われる、"警察"という職業に就いている真緒さんも、その中の一人だ。
「真緒さん……」
「こんにちはまおち!」
「う、うむ……どうした大和、渚に歌舞伎町を案内しているのか? この街に中学生が楽しめる所なんぞバッティングセンターかゲームセンターぐらいしか無いぞ」
そう言いながら真緒さんは渚からの挨拶に、彼女の頭を撫でながら返事を返した。
「違います。仕事の売上金を組……事務所に持っていく途中です。渚はその付き添いですよ」
「真緒ちゃんは何してたの?」
「私の方は仕事中でな。今は休憩をしていて、こうして煙草を吸っていた所だ」
真緒さんは帝組という極道を纏めている父を持つ身でありながら、実際務めている職業は全くの正反対な属性である警察だ。
警察の中にも、極道と同じように階級制度が存在するのは知っている……去年の冬には一緒に仕事をした時もあったが交番勤務とかでは無さそうな真緒さん、彼女は警察の中ではどれくらいに偉いのであろう。
「……折角だ。 これからバッティングセンターに行こうと思っているのだが……お前達も一緒にこないか?」
「行く行く!」
俺が売上金を組に渡しに行くという予定を忘れて真緒さんからの誘いに乗り気な渚。
しかし、組に来いと指定された集合時間までは、まだ全然に余裕がある。
「まぁ少しぐらいならいいでしょう……俺も丁度体を動かしたかった所なので」
「食後の運動って奴だね!」
「そうと決まれば早速向かおう」
その後……
「やぁ!」
バッティングセンターに来た俺達……渚はヘルメットをつけて、球の速度を九十キロに設定した状態で空振りばかりしていた。
「ボールをよく見てください、そんなにビビっていたら一生バットに当たりませんよ」
「だってバットが重いんだも〜ん」
「ならバットを軽い奴にすればいいではないですか」
「分かった!」
「ほらもう次のボールが飛んできますよ」
「わわっ、待ってよ〜!」
一方の真緒さんは……
「ふんっ!」
その店のピッチングマシンの最高時速である百四〇キロに設定して、ヘルメットもつけずに弾丸のように飛んでくるボールを次々と跳ね返していた。
「まおちすごーい……プロの野球選手みたいだね〜」
「それ程でも無いさ。ここには日頃から通っているから打ち慣れているだけだ」
「それに比べてお兄ちゃんは……」
「何ですか……」
先程から俺と真緒さんの間に挟まれているバッターボックスで球を打ち返そうとしていた渚。
彼女はふっと笑った後、粘りつくような目で俺のバッティングの様子を見ていた。
「お兄ちゃん、全然球打ててないじゃん」
「貴女よりは打てています」
因みに俺の成績は、百キロのボールを打ち返したり打ち返せなかったりしている。
それが一般人の成績なのかどうかはともかく、真緒さんの成績が異常すぎるのも関わらず、渚に比べられて馬鹿にされてしまっているのだろう。
「お兄ちゃん男の癖に、まおちに負けててかっこわるーい」
「仕方が無いさ、その男は女である私よりも力が無いのだからな」
「そうですね……実際に殴り合いの喧嘩をすれば、俺の方が負けてしまうかもです」
去年の冬の仕事以来……警察らしい事をしている真緒さんの姿は見れていないが、かつての違法サイトのアジトに潜り込んだ時に、俺は数十人の男達を相手にしている真緒さんの強さを目撃している。
裸を見せてもらった時は腹筋が割れていたし、警察で働いている身として日頃からトレーニングもしていそうだ。
俺も歌舞伎町に来たばかりの頃から、斬江に格闘技は鍛えられていたが、アジトでの一件以来それが役に立つ事も無い……そもそも俺は、物理的な勝負事自体あまり好きでは無いのだ。
「大和の強さは、実際に戦ってみなければ分からないが……私の方は職業柄で鍛えているから、単に力があるだけさ」
「そうなんだ〜、確かにまおち、強そうだもんね」
「うむ、強くなければ警察は務まらんからな」
「……どうせ俺の方が弱いです」
「あっ、拗ねた〜」
「拗ねてないです」
丁度そこで球を打ち終わり、休憩をする為にバッターボックスから出て、渚の方のバッターボックスの後ろにあったベンチに腰掛けた。
「いいから貴女は、一発でも打ち返せるようになってください」
「分かってるよ〜」
「とりあえず球をもう少し遅くさせてから打つというのはどうだ?」
それから真緒さんも打ち終わり、いつの間にか俺の隣に座って渚のバッティングを応援する体勢に入っていた。
「えっと……これでいいかな」
「それで少しは球を捕えやすくなったであろう」
「いいか渚、そのボールを嫌いな奴の顔だと思って打てば思い切り飛ぶぞ」
「嫌いな奴、嫌いな奴……」
真緒さんからのアドバイスを受けて、渚はその言葉を呪文のように唱えながら、前方のスクリーンに映し出されているピッチャーを睨みつけている。
それからピッチャーの投球フォームが映像で映し出され、彼の腕の辺りにあるボールが勢いよく飛び出してきた次の瞬間……
「うらぁっ!!」
ついにボールを上手く目で追えたのか、渚がバットを振って心地のいい音が響くと共に、ボールはピッチャーの横へと転がっていった。
「ふっ、打ち返せたではないか」
「やった……やったよ〜!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる渚を見て、真緒さんも腕と足を組ませながら微笑んでいた。
「まだ終わりでは無いですよ」
「わわっ!」
再度バッティングを行う渚。
一度打ててしまえばコツを掴んだのか、それから空振りの回数の方が少なくなっていった。
「どれもヒットとかファールレベルですね……あれでは塁に出る事が出来ません」
「徐々にホームランを打てるようになればいいさ」
「今後の課題はバットを振る力ですね」
「私みたいに鍛えれば、すぐに打てるようになるぞ」
「……力が強い女性は貴女だけで充分です」
「ふっ、妹と殴り合いの喧嘩で負けるのが怖いか」
「いや別に渚とは殴り合いませんよ」
せっせと必死にボールを打ち返している渚を、普段は見る事の無い、優しそうな目で見つめている真緒さん。
……もし真緒さんと結婚して子供が出来たら、このような光景が見られるのだろうか。
ヤクザと警察の間に生まれた子供……仮に非行に走ったとしても、愛情を与えられる事が出来なかったからという原因にはならなそうだ。
「俺……実は渚に、俺がヤクザだって事はまだ言っていないのです」
「……そうなのか」
「はい、言うタイミングが見つからないですし……そもそも言う必要があるのかどうかで迷っている所です」
「……」
先程まで笑顔だった、渚を見ている真緒さんの目付きが変わった。
こちらで不穏な空気が流れているとも知らず、渚はホームランを打ってボールをネットに突き刺させていた。
「……そういう事は早く言った方がいいぞ。 溜めるだけ溜めて、何でもっと早く言ってくれなかったんだ……などと言われたら、もう遅いであろうからな」
「……そうですね」
「隠し事というのは放置すれば放置する程、後々になって言いづらくなってしまうものだ」
「いざ言ったとして嫌われたとしても……それで渚が家に帰れば、こんな所よりも故郷にいた方が安全な渚の為であろうしな」
「……はい」
渚は俺の実の妹。
一方の真緒さんは、俺の姉貴のような存在だ。
歳上の意見というのは、聞いていると安心する事が出来るし、それを実行しようというモチベーションも上げる事が出来る。
「まぁ頑張れよ、お兄ちゃん」
「っ、やめてください……」
今思っている不安を取り除いてくれるかのように、真緒さんは俺の頭をくしゃくしゃと撫でてきた。
「……さて、誘っておきながら何だが、私はそろそろ失礼するとしよう」
「行くのか?」
「ああ……色々と調べなければいけない事があるのでな」
「……お気をつけて」
「うむ……それではまた、黒百合で会おうぞ」
そうしてベンチから立つと、真緒さんはこちらに手を振り、外から差し込む光の中に消えていった。
渚にも別れを言えばいいものを……
一体何について調べていたのか……警察の仕事を一般人に関与させないようにする、真緒さんなりの気遣いであったのだろうか。
「あー楽しかった。 あれまおちは?」
「帰りましたよ。 俺達も行きましょう」
「ええっ、いつの間に!?」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
……それから屋台の仕事を終わらせ、何処にも寄り道せずに事務所へとやって来た俺達。
渚を事務所への入口の側へと待たせている間、斬江に売上金が入っているセカンドバッグを渡した。
「あらぁ……以外と儲かったわね、お疲れ様ぁ」
「ありがとうございます」
「これからどうするの〜?」
「渚と一緒に、晩ご飯とかの買い出しに行こうかと思っています」
「なるほどねぇ〜、どう? 妹との同棲生活は?」
「一応……順調です」
「そう、襲ったりとかしてないでしょうねぇ」
「はい」
そうして今の生活の状況を、時折ニヤニヤとしながら冗談混じりの質問をしてくる斬江に簡単に報告した後、事務所から退出しながら軽く溜息をついた。
明日も同じ時間に、事務所に来ればいいとの事だ。
その間は実質自由だ……渚の面倒を見てやる事も出来る。
「何だって?」
俺が事務所から出ると、階段に腰掛けていた渚がその場から立ち上がった。
「もう今日は帰っていいそうです」
「そっか、お疲れ様」
「はい……」
現在の時刻は日もまだ出ている十七時……今頃スーパーマーケットではお弁当やお惣菜の値引きが始まっている頃だろうか。
「どうしますか? もう買い出しに行きますか?」
「その前にあたし、行ってみたい所があるんだけどいい?」
「どこですか?」
「公園の桜を見に行きたいかな〜」
ここら辺りで桜を見れる公園といえば、都庁付近にある新宿中央公園だ。
あまり時間を掛けすぎてしまうと、他の社会人達に食材を取られてしまうが……通り過ぎるぐらいには構わないだろう。
「分かりました……その代わり、すぐに帰ってきますからね」
「うん!」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【昨晩の渚からの恋人の質問に対して"ひとみさん"と答えた場合】
新宿中央公園……。
流石に平日だからなのか、公園の広さに対して人が少ない。
明日も仕事があるなら早く帰れ……まるでこの場から今すぐに立ち去れと言っているかのように、公園の木々は風に揺られて、葉を不気味にさざめかせていた。
それとは一方で桜の木も揺れて、ヒラヒラと花を落として幻想的な景色を見せている。
「わぁ〜」
その真下に渚はおり、両手を上にあげながら桜吹雪を彼女が着ているパーカーに付着させていた。
「こんなに綺麗なのに、皆見に来ないなんて勿体ないよね〜」
「仕方がないですよ、今日は平日なので」
「でも人が少ないと、落ち着いて見れるからいいね」
「落ち着いてなんかいられないです……さぁもう充分見ましたよね」
「あーん、せめて写真だけ撮らせてよ〜」
あたふたとスマホをポケットから出す渚を見て、彼女を置いていこうと思わせて、俺はすぐ近くにあったベンチに座った。
家に帰るまでは持続させておこうと思っていた体力が……座った瞬間にベンチに吸い取られて、リラックスモードへと移行してしまう。
目の前でスマホを片手にはしゃいでいる渚を見ながら……風の感触や木々の匂いに囲まれて、瞼が重くなっていくのを感じる。
……駄目だ駄目だ、まだ寝てはいけない。
俺はこれから家に帰って、大食らいの渚に晩ご飯を作らなければいけないという任務が残っているのだ。
「……あっ、やまちゃんとなぎさんなのぜ!」
……そう思っていると、柴犬を連れていたひとみさんがどこからともなく俺達の前に現れた。
「ひとみさん……」
「おおー! こんにちはとみー!」
「なぎさんもこんにちはなのぜ!」
抱きついてきた渚にひとみさんも抱き返し、熱い抱擁を交わし合う二人。
これで周囲に人がいれば何事かと思うであろうが、幸いにも今は誰もいない。
「やまちゃんもこんにちはなのぜーっ!」
それからひとみさんは両手を広げて、八重歯を出してにんまりと笑いながら、今度はこちらの方に近づいてきた。
そして今日もまた、俺はそのミサイルを受け止めて彼女と抱擁を交わす。
「えへへ……」
あまりイチャイチャしても渚にちょっかいを出されそうなので、簡単にひとみさんの頭を撫でた後に、彼女から身体を離す。
「ひとみさんが一人でいるなんて珍しいですね、どうしたんですか今日は」
「こいつの散歩をさせていたのぜな」
「可愛いよね〜」
しゃがんだ渚に体を撫でられて、柴犬は尻尾を振りながらワンと一回鳴いた。
……その柴犬とは、クリスマスの時に俺とひとみさんで出迎えた、黒百合にやってきたあの黒毛の柴犬であった。
「名前はなんて言うの?」
「クロなのぜ!」
「おお、覚えやすい名前だね〜」
クロは俺の事も覚えていたのか、こちらの方に目を合わせて、笑っているように舌を出しながら尻尾を振っていた。
「そっかー……とみー、犬飼ってたんだね〜」
「いや、それが飼ってないのぜな」
「ええっ」
「どういう事ですか」
「実は……こいつは飼ってるわけじゃなくて、ここで時々一緒に遊んでるだけのぜ」
「えっ、てことは……」
「このクロは、この公園の中で住んでる野良犬なのぜな」
歌舞伎町内は人が住めるような家が無ければ、犬がのびのびと寛ぐ事が出来る庭などの広い空間も存在しない。
それを気遣っているのか、ひとみさんはクロをこの新宿中央公園内で野放しにしているらしい。
……思えばインターネット喫茶で正式な家に住んでいないひとみさんが、クロを泊めてやる犬小屋など持ち合わせていないという事か。
「住んでるって……他の人に見つかったりしないんですか?」
「大丈夫なのぜ! ここは以外と隠れられる場所も多そうだし……今ここにいられるって事は、今の所は誰にも見つかってないって事なのぜな?」
「……確かにそうですね」
「それにしても、綺麗な桜なのぜね〜」
「ああ……」
それからひとみさんはベンチに座っている俺の隣に腰掛けてきた。
風で桜が揺れて、花を散らしているのと同時に、それを見ているひとみさんの桜と同じ色のツインテールも靡いている。
その姿は……桜の木々に、ひとみさん自身も溶け込んでいる程の綺麗さであった。
「お手」
……それとは一方で、渚はクロにお手やらお座りやらで芸を仕込んでいた。
「お仕事の方は順調ですか?」
「うん! 順調なのぜ! 最近は生活費とは別のお金を貯めれるようにもなってきたのぜな」
「あっ……それはもしかして……」
「うん……やまちゃんと旅行をする為のお金なのぜ……」
「ひとみさん……」
正式な住所を持たず、歌舞伎町のインターネット喫茶に住んでいるひとみさん……かつては趣味も夢も無いと言っていた彼女だが、今は夢がある。
……それはかつて俺達が買った原付のジョルノを用いて、日本一周する旅に出る事だ。
俺自身も免許を取り、斬江にマグナフィフティというバイクも買ってもらった……あれからひとみさんと交際をするようになり、一応俺には彼女の旅行についていく資格があるという訳だ。
「……本当はそういったお金って、お家を買う為のお金とかに使えばいいと思うよね」
「大丈夫ですよひとみさん……ひとみさんのやりたい様に、やればいいんだと思います」
「えへへっ、ありがとうやまちゃん……でも何に使うにせよ、お金を貯めておいて損は無いと思うのぜ」
「そうですね……今はただ、貯金をするだけといった感じでしょうか」
「うん……とりあえず今の所は、やまちゃんとこうしてお花見をしてるだけでも楽しいのぜ……」
先程の笑い方とは違い……優しく微笑みながら、俺の手に自身の手を乗せてきたひとみさん。
「……はい、俺も楽しいです」
「えへへ……お金を貯めるの、あまりお待たせしないようにするから……」
「大丈夫ですよ……準備が出来たら、いつでも声をかけてください……お金が中々貯まらないと、無理だけはなさらないように」
「うん!」
そして彼女の頭を撫でると、また元の八重歯を出した笑い方へと戻っていった。
そのようなひとみさんは渚が来るずっと前から、俺の妹のような存在として、俺と接してきてくれている。
「……どうやらあたしはお邪魔みたいだね」
俺達の事を、首を傾げながら見ているクロとは別に、渚はニヤニヤと笑いながら俺達が互いの身体に触れ合っているのを見ていた。
「そっ、そんな事ないのぜ! ゴメンなのぜな〜」
「大丈夫大丈夫! むしろあたしの方が二人の邪魔しちゃってごめんね!」
「うう……」
「……少し歩きましょう」
「あっ、いいのぜな」
ベンチから立ち上がり、ひとみさんと渚を連れて公園の遊歩道コースを歩く。
道の両隣には桜の木が立っており、まるで桜のトンネルの中を潜っているような感覚だ。
「……綺麗なのぜな〜」
「ひとみさんの方がお綺麗ですよ」
「えっ……」
その言葉を聞いて、桜の方から俺の方へと向いてきたひとみさん。
……だが今の言葉を言ったのは俺ではなく、俺の後ろに隠れて俺が言ったかのようにぼそっと呟いた渚であった。
「何をしているんですか貴女は……」
「とみー顔真っ赤だよ〜」
「あぁ、なぎさんが言ったのぜな! びっくりしたのぜ……」
ほっと息を吐いて胸を撫で下ろしたひとみさん。
「余計な事しないでください……」
「あはっ、お兄ちゃんも顔真っ赤だ〜」
「えへへ……」
からかってくる渚から目を逸らしてひとみさんの方を見ると、彼女は恥ずかしそうにしながら笑っていた。
「何だか新鮮なのぜ」
「何がですか?」
「ほら、今まであたいらの中では、あたいが一番の歳下だったから……」
「そこに中学生のなぎさんが入ってきて、昨日とか凄い新鮮だったのぜ!」
「今度はひとみさんも、お姉さんになる番ですね」
「これから宜しくね、ひとみお姉ちゃん」
「こちらこそ宜しくなのぜ!」
肩を組み合って笑い合っているひとみさんと渚。
末っ子のような存在であったひとみさんから、そのポジションが渚へと移り変わった。
つまり真緒さんや飯田さん、長内さんからも末っ子の対象が渚になるという事になる。
そう思うと寂しい気もするが……渚にはこれからも皆と仲良くしていって欲しいものである。
「二人はこれからどうするのぜ?」
「……あっ、そうでした。スーパーに行って晩ご飯の食材を買いに行く予定なんです」
「あぁそうなのぜなぁ……じゃああたいも、そろそろおうちに戻らなきゃいけないから、ここら辺で失礼しようかな」
そう言ってひとみさんは、ネット喫茶とは反対方向の場所へと歩きだそうとしていた。
「どこ行くんですか? 歌舞伎町はあっちですよ」
「先にクロをお家に返さないといけないのぜ!」
「ああそうですね……」
「それじゃあ二人とも、また黒百合で会おうなのぜ!」
「うん! またね〜! クロもばいばーい!」
そうしてひとみさんはこちらに大きく手を振りながら、クロも渚に向かって元気よく吠えて、彼女達は公園の奥へと消えていった。
「ではそろそろ本当に、スーパーに行きますよ」
「うん!」
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【昨晩の渚からの恋人の質問に対して"凪奈子さん"と答えた場合】
……それから俺達は殆ど人がいなかった新宿中央公園で桜を見終わった後に、歌舞伎町へと帰ってきた。
時刻は十八時を過ぎて、日も沈んで空が暗くなり始めてきた。
この時間辺りになると仕事を終えた社会人達が、仕事中に溜めたストレスを発散させようと歌舞伎町へやって来て賑わせる。
「おお〜……」
今日もギラギラと、パチスロ屋の店頭のように眩しい歌舞伎町の街並み。
夜になり始めているのにこの場所だけは日中と変わらない……そして色々な人で賑わっている街並みに、渚は一番街のゲートの前で声を漏らしながら魂消ていた。
表面上は賑やかで楽しそうな場所であるが、物騒な所である事に変わりは無い……俺がついていなかったら、とっくに渚は男達から声を掛けられていた事だろう。
「凄い……本当にいつも、お祭りみたいな場所なんだね」
「新宿の娯楽要素を支えている場所ですから……しかしお金が無ければ、何も楽しめませんよ」
「うーん……そういうのってやっぱ、キャバクラとかパチスロとか?」
「まぁ間違ってはいませんが……てかお金を使う以前に、貴女は稼げるようになってください」
「んー……どこで働くのがいいかなぁ?」
「……この中で働くおつもりなんですか?」
「ううん、あくまで参考程度に見てるだけー」
そうして渚は一番街を歩きながら、両隣に並んでいる店を眺め始めた。
先も渚が言っていたパチスロ店やキャバクラ……それ以外にはせめて居酒屋と、普通の女子が働こうと思いそうな店舗はこの中には無い。
「うーん……分かんないや」
「無難にコンビニとかが楽ですよ」
「えぇ〜、でも覚える事多そうじゃない?」
「確かに多いですが、覚えてしまえば後は作業です」
「ふーん……」
……というよりもそもそも、この歌舞伎町の中で働こうと思う事自体が間違っている。
コンビニなど歌舞伎町以外に新宿の色々な場所にあるのに、どうして寄りにも寄ってそこで働こうと思うのか。
渚もここでは働こうとは思っていないだろうが……俺自身も歌舞伎町内では絶対に渚を働かせないと誓ったのであった。
そもそも渚がアルバイトが出来るようになるまで……俺は歌舞伎町に居続ける事になるのか?
その頃には、真緒さん達はどうしているのか?
渚を働かせるのはいいのだが……それを思った瞬間に様々な不安がポツポツと脳内に浮かんでくる。
「あっ、お兄ちゃん前!」
「え……」
……思考に夢中となり、自分の世界に囚われていなかった為に前が見えていなかったのか。
後ろから渚に指摘をされた時には、もう遅かった。
「きゃあ!」
女性の悲鳴が聞こえたの同時に、俺は一番街の建物から出てきた者と衝突してしまった。
「っ……すみま、あっ……」
そしてぶつかるや否や謝ろうとしてきた、ロイヤルメイデンの建物前で尻もちをついていたその女性は……
「あっ……」
「おお、なーなだ」
「……こんばんは」
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「……全く、今度はあんたの方から突っ込んでくるとはね」
「……本当にすみませんでした」
そしてゲートへと戻りながら凪奈子さんと合流して、スーパーへ向かおうとヤマダ電機側の道路へ渡る為の信号待ちをしている最中……
凪奈子さんは俺が気を取られて、彼女とぶつかってしまった事に対して文句を言ってきていた。
「この町で誰かとぶつかったら危ないって事は、あんたが一番分かってるはずじゃないの?」
「てか最初は貴女から突っ込んできた事もあったので……これでおあいこです」
「何ですって!」
「どういう事?」
道を歩いている途中で凪奈子さんが俺に突っ込んできた日……それはつまり俺と凪奈子さんが初めて出会った日の事である。
その時の状況を、首を傾げている渚が知っている筈もなく、当時に何があったのかを俺は渚に説明した。
「ながらスマホは危ないし、それは確かになーなが悪いよ」
「はい」
「そこは認めるわよ」
「……でも今回は、完全に前方不注意だったお兄ちゃんが悪いね」
「ええっ……」
凪奈子さんの味方でも無ければ俺の味方でも無い、中立的なポジションに立つ渚。
「それなのに、よくそんなに強く言えるなとか、今はお兄ちゃんの方が悪いのに酷いよ!」
「はぁ!?」
そう思った矢先、渚が一瞬にして凪奈子さんに味方についたのを感じた。
「ほーらっ、渚もよく分かってるわ」
味方が一人増えた凪奈子さんは、渚の頭を撫でながら、こちらを見て自信満々な表情を浮かべていた。
こうなってしまえば下手に反抗した場合、女子二人による罵声の槍に串刺しにされる結末を辿るだけであろう。
「……すみませんでした」
ここは素直に謝って引き下がっておこう。
「私が言えた事じゃないだろうけど、次からはしっかりと前を見て歩いて頂戴」
「はい」
そうして凪奈子さんから説教を喰らった所で、信号が青へと変わる。
「……そういえば今日って、黒百合は定休日なのよねぇ」
「えっ、そうだったの!?」
「はい、毎週木曜日と日曜日は定休日です」
「えーっ、そうだったんだぁ……皆に会いたかったなぁ」
「大丈夫よ。 明日になれば皆集まるだろうし、その時になったら会えるわよ」
「分かった〜」
「でも大分時間が余っちゃったわ……どうしようかしら」
「今日もお仕事だったんですね」
「そうよ。 よりにもよって今日は早く終わったの……家に帰るのも早いし、これからどうしようかしら」
「それならば……これから色々と買い出しに行くのですが、凪奈子さんさえよければ一緒に付き合って頂けますか?」
「あら、いいわよ」
疲れていそうな顔をしていても、嫌がる様子も無く承諾してくれた凪奈子さん。
「買い出しって……何かお使いでも頼まれてるの?」
「そういう訳では無いのです……この渚に食べさせてあげる、晩ご飯とかをですね」
「ああ、そういう事ね」
ここら辺りで近いスーパーマーケットは、成城石井という店舗であり、俺達はそれからそれがある新宿ルミネの方へと向かう。
「……ええっ!?」
その途中で俺は凪奈子さんに、現在渚と二人暮らししているという事を打ち明けた。
(あんたねぇ……)
未だに渚にはバレていないとはいえ、仮にもヤクザの身である俺。
それと女子中学生の渚が二人暮らしをしているのは……兄妹でも会ったばかりの男女が同棲するというのはまずい事も含めて、やはり客観的に危険に見えるのか、凪奈子さんは納得がいっていない様子だ。
彼女は俺に肩を組んでくると、そのような表情をしながら小声で話しかけてきた。
(渚はホテルで泊まってるんじゃなかったの?)
(よくよく考えてみれば……バイトも出来ない中学生が、東京で生活出来るだけのお金を持っている訳が無いですよ)
(……それもそうね)
(それで……うちの親が家を借りてくれて、俺は渚の世話役として、一緒に暮らしているという事です)
(……襲ったりしてないでしょうね)
(んなわけないですよ……妹ですよ?)
(まぁ私がいるし、当然よね)
(は、はい……)
「二人ともどうしたの?」
「いや何でも無いわ、気にしないで」
不安そうな表情を浮かべて俺達の顔を覗き込んできた渚に、凪奈子さんは俺から顔を離して渚を安心させた。
「そうね……もしよかったら、今日の晩御飯は私が作るわ」
「えっ?」
「おお! なーなのごはん!」
「……いいんですか?」
「ええ、家に来て芽依と舞依にご飯を作ってくれた時のお礼だと思ってくれればいいわ」
「ごはんー!」
餌をくれる飼い主に向かって、前足をあげて乗せている犬のように、凪奈子さんの腕に抱きついて甘えている渚。
「何が食べたい? 私に作れる範囲のものであれば、何でも作ってあげるわ」
「カレーライス!」
「ふふっ、定番ね」
手を繋ぎながら、まるで公園から家に帰る途中の親子のような会話をする二人。
流石は俺とは違い、日頃から二人の妹を養っている凪奈子さんだ。
歳下の扱いには慣れており、渚も姉としての包容力を持っている凪奈子さんに、警戒する事無く甘えていた。
……今後渚は、同じく俺達の間では妹キャラとして確立している瀬名さんと、いいライバル関係になっていくのだろうと思った瞬間であった。
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……その後、成城石井でカレーの材料、その他の食料を買ったのとは別に、洗濯用洗剤などの日用品も購入した。
更に飲み物も数本買った事で、レジ袋に詰め込んだ時の重さは相当の量となる。
「ぐっ……」
「頑張れ頑張れー」
重たい荷物の方を持つのは、男である俺の仕事だ。
あまりの重さで掌が切断されるのでは無いかと思いながら、何とか大久保の俺達のアパートまで帰ってきた。
「ふぅ……やっと着いた〜」
「何だかボロそうなアパートね」
「あまり高い所にも住めないですし」
部屋の鍵を開けて、凪奈子さんと溜息をつきながら肩を落としている渚を中へと入れる。
「結構綺麗なお部屋じゃない」
「昨日来たばかりなので」
購入したものを冷蔵庫や所定の位置に配置している間……凪奈子さんは渚と一緒に部屋の内装を見渡していた。
「こんなに何も無い所だと、家にずっといたら退屈しちゃうでしょう?」
「そう、だね……でも贅沢は言えないよ」
「何も無い所で悪かったですね」
「それじゃあ早速作りますか」
凪奈子さんは荷物を降ろすと、冷蔵庫の前でしゃがんでいた俺の後ろを通ってシンクの前に立った。
「俺も手伝いますよ」
「大丈夫よ、私一人で作れるわ」
「そうですか?」
「ええ、あっちの部屋で渚と一緒に待っていて頂戴」
「……では、お任せします」
凪奈子さんから指示された通り、畳の部屋に戻って寝転んでスマホを弄っていた渚の隣に座った。
「一時間少しあれば作れると思うわ」
凪奈子さんは既に、包丁で買ってきたジャガイモやらニンジンなどの食材を切り出している。
以前は何回か一緒に料理をする事があったが……今回は俺は参加していないので、彼女の料理している姿をじっくりと見る事が出来る。
優しい眼差しでグツグツと鍋で煮込まれていく食材を、菜箸でかき混ぜながら見ている凪奈子さんの横顔。
一体どのようなカレーが完成するのかを期待しながら……その光景はいつまでも飽きる事無く眺め続ける事が出来た。
「どこ見てんのー?」
肘を床につけて頭を支えながら横になっていると、スマホ弄りに飽きた様子の渚が、寝転がりながら俺の上に乗ってきた。
「……いや、ただボーッとしてただけです」
「うっそだー、なーなの方見てたクセに」
渚の言葉に反応して、凪奈子さんも俺の方と目を合わせるとふふっと笑った。
「大和って素直じゃないのよ。 見ていたいならそうだって素直に言えばいいのに」
「いやただの変態ではないですか……」
「お兄ちゃんって変態なの?」
「どうしてそうなるんです?」
「男って皆そんなもんよ」
「ええ……」
凪奈子さんのまるで男の全てを知っているかのような意見を聞いて、座ったまま俺から後退り、引いているような反応を見せる渚。
「襲わないでね……」
「だから襲わないですって!」
「心配しなくていいわ渚、もしそんな事があったら私が許さないから」
そう言いながら俺の頭に手を乗せてきた凪奈子さんの片手には、完成されて湯気を立てていたカレーがあった。
「あのですね……」
「おお、美味そうだね〜!」
「それじゃあ食べちゃいましょう。 頂きま〜す」
「頂きます!」
「……頂きます」
俺が変態であるのか変態でないのか、その答えが俺達の間で導き出される事は無く、中途半端なまま晩飯の時間は始まった。
「……美味しい!」
「……美味しいです」
時々変な言動を口にする凪奈子さんであるが、料理は上手である凪奈子さん。
その中には自信過剰を思わせる偉そうなものも含まれているが、ルーの味は俺と渚とでしっかりと分けてくれていた。
因みに俺の方は甘口、渚の方は辛口だ。
「ふふっ、飯田家の味を気に入って貰えて嬉しいわ」
凪奈子さんも自分の作ったカレーの味を確認しながら、渚の反応を見て優しく微笑んでいた。
「お兄ちゃんもカレーを作れるの?」
「まぁ作れますよ」
「なら食べ比べしてみたい!」
「じゃあ今度、二人で家にいらっしゃい。家の妹達も混ぜて、大和の料理と私の料理どっちが美味いのか決着をつけようじゃない」
「おおー!」
「俺は自信が無いので、既に俺の負けで大丈夫ですよ」
「なによー、つまんないわねぇ」
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「まだ九時か……これなら全然家に間に合いそうね」
……それからカレーを食べ終わり、ご馳走をしてくれたお礼を兼ねて、俺と渚は凪奈子さんを新宿駅まで送っていた。
「それではお気をつけて……明日も学校とお仕事両方あるんですよね」
「そうよ〜。 黒百合で生きてたら、また会いましょ」
「そっかー、なーなって大学生なんだよね」
「まぁ一応ね」
「お勉強しながらお仕事って……やっぱり大変?」
「確かに大変だけど、続けてれば慣れてくるものよ……それに皆と会うのが楽しいから、毎日頑張れるしね」
「俺も同じです」
凪奈子さんの場合、大学に通っているのは自分自身の為だったとしても……ロイヤルメイデンで仕事をしているのは、今も家で帰りを待っていると思われる妹達の芽依さん舞依さんの為であろう。
そして凪奈子さんは家にいない両親に全く頼らずに、双子の面倒を見ている。
学校に通っていない、現在面倒を見ている対象が一人しかいない俺が、弱音を吐いている場合などではない。
「渚……この人、家ではちゃんとお兄ちゃんしてる?」
「うん! 今の所は大丈夫だよ! ご飯も美味しいし〜」
「そう……それなら良かったわ」
そしてそんな凪奈子さんが抱いている夢は……将来は幸せな家庭を築いていく事。
彼女自身、中高生時代はストレス解消代わりに性行為を頻繁に行う程の、かなりの悲惨な環境で非行に走り続けた時間を過ごしていたらしい。
そして不良は不良同士で結婚して、その子供もまた不良になると……その負の連鎖を断ち切りたいと、凪奈子さんは張り切っているのだ。
自分と同じ子供時代を送らせない為に……
普通の家庭で、普通の子供として育って貰う為に……
そうなろうとしている母親を支える為には……当然将来は凪奈子さんの旦那になるであろう、俺がしっかりしなければならない。
普通の父親というものはまだ分からないが……今は渚を子供と見立てて、精一杯面倒を見てやる事にしよう。
「頑張ってください凪奈子さん……俺は仕事終わりには絶対に黒百合にいるので、凪奈子さんさえ良ければ会いにきてください」
「勿論行くわよ……何回も言うけど、その為に毎日頑張ってるようなもんなんだから」
「凪奈子さん……」
「あんたも頑張んなさいよ」
「ありがとうございます……」
少々恥ずかしいが、何とか凪奈子さんを安心させる事が出来る言葉をかけられたか。
そう思ったタイミングで、俺達はいつもの新宿駅の改札前へとやってきた。
「それじゃあここまでね」
「ええ……またお会いしましょう」
「カレー美味しかったよ!」
「ええ、渚も何か困った事があったらすぐに連絡してくるのよ?」
「ありがとう! またね〜!」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「……ふぅ」
……その後、家に帰ってきて飯を食った後、風呂に入って歯を磨き、俺の一日はもうすぐ終わりを迎えようとしていた。
「あぁー、疲れたー……」
俺の一日が終わるという事は、共同生活をしている渚の一日が終わるという事でもある。
彼女は布団で大の字になりながら天井を見つめていた。
「黒百合空いてなかったのは残念だったな〜……」
「毎日営業するにしても疲れてしまいますから、仕方が無いですよ」
「まぁそうだけどさ」
布団を敷いてその場に座る。
あとは電気を消して寝ればいいだけだ。
「電気消しますよ」
「うん」
昨日と変わらない渚との会話。
昨日と変わらない一日の結末。
だが、その途中で起こった出来事さえ良い結果が得られれば、それだけで充分な一日であった。
その時の興奮に浸るのもいいが……明日に備えてとっとと寝てしまおう。
とりあえず夜寝る前でも尚、スマホを弄っている渚を養う為に健康でい続けなければ……
「お兄ちゃん……」
「……何でしょう」
「明日の晩御飯……ハンバーグがいい」
「……いいですよ」
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