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忘れかけていたもの
あの日私は全てを失った。何もかもどうでも良くなった。この世界のあり方も、何もかも。私の中には無くなっていた。そんな日の出来事だった。
私の名前は瑠美。千田瑠美だ。
今年で20になる。
大学二年の私は医学の道へ進むため医大に入った。しかし今大事なものを見失いかけている。それが今私の目の前に転がる生暖かい死体になりかけの存在だった。
「た、助けてくれ……」
「え!?」
今そこにあるのは偽物ではない。偽物の練習用マネキンではないのだ。
ゴクリと唾を飲む。今ここで私が助けなればならない。幸いにも呼吸はできている。呼吸器官は無事のようで腹部から溢れる血が鮮明な私の目の中に飛び込んでくる。
怖い。いやそうじゃない。騒然として目の前に立ちはだかった恐怖に心を支配されているのだ。動け、私。今動かないとこの人は死ぬ。それが分かっているのに、突きつけられた現実から目を背けたいと願ってしまう弱い自分が皮肉にも嘲笑う。
人はこんなにも無力なのか。人はこんなにも臆病な生き物なのか。咎められても仕方がない。私は人間であると同時に人間の持つ闇の部分に踏み込んでしまっている。半分浸かりきったぬるま湯はどうしても私を掴んで離さない。ここから抜け出さないと私はただの殺人犯だ。いや違う。この人がこんな目にあったのは私のせいじゃない。現実逃避でも正当化でもない。これは単なる事故。突然降って来た鉄骨が直撃したのだ。
だから私は悪くない。悪いのはこの人だ。今逃げたって誰も知らない。私のキャリアは安泰のはずだーー
「本当にそれでいいの?」
「えっ!?」
不意に声が聞こえて来た。でもそれはおかしい。ここには私とこの人しかいないはずだ。怖い。まさか幻聴?それか私は既に死んでーー
「ここで逃げたら君は犯罪者だよ」
「そ、そんなことないです。だって誰も見てない。カメラだって……」
「それは違うよ。私だって見てるし、もし仮にここからうまく逃げられたとしてもこの場所に残った君の血痕と指紋はびっしりついたままだよ。それはつまりここで君がこの人を見殺しにしたことの裏付けにしかならない。つまり仮に事故だと処理されたとしても見殺しにしたレッテルは永久に剥がれないんだよ」
「うっ……」
確かにそれはぬぐいようのない事実だ。結局私は臆病者で単なる恥晒し。人殺しと同じなのだ。
「でももし君がここでこの人を救ったら、その事実は覆るんじゃないかな?」
「でもそんなこと私には……」
「できるよ。できるから今君はここに残っているんだ。考えてみてよ。臆病者で倫理観の欠片もなかったら、いつまでもこんな薄暗い電気も切れた場所にいるわけがないよ」
「でもやっぱり……」
「いいから。君は君のやるべきことをやるんだよ。でないと君はいつまでもこのままだ」
声の主は私に激昂した。
激励とも取れるその言葉はもの静かでしっとりとしているが、それでも筋は通っている。疑いようのない真実を突きつけられ、私は無我夢中だった。
冷静を保つのがやっとでおぼつかない手。まだまだ足りない技術に困惑しながらも何とか治療した。幸い最低限の道具は持ち運んでいたし、その場に転がっているもので代用した。衛生上の問題もあるが、この際そんなことは言っていられない。自分にできることをするのが精一杯の奉仕だったと言える。
「で、できた」
「うん。凄いよ。やっぱり君は」
「貴女のおかげです。そういえばまだお礼を言ってませんでしたね」
「お礼なんていいよ。やったのは君だよ?私は単なる傍観者。助言をしたと言ってもそれは“真実を突きつけた結果”に過ぎないんだ」
「それでも」
「じゃあありがたく受け取っておくよ。じゃあね」
そう言うと声の主の足音が遠くなる。
しばらく放心状態で呆然としていた私はその場に座りへだる。さっきの人は何だったのだろう。顔も見れなかった。そんな余裕はなかった。それでも確かにわかるのは、忘れかけていた何かを思い出させてくれたことだけだった。
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