諦めかけていたもの

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諦めかけていたもの

 今俺の前には海が広がっている。黒い海だ。  底知れぬ恐怖心を煽り俺を誘う。まさにそんな風潮が頭の片隅をよぎる。  俺の立つ断崖絶壁の岩場。俺はスーツ姿で曇天の雲と暗闇色の海色を眺めた。 「もう終わりにしよう」  全てに疲れ切った俺はここから身を投げる気でいる。何故かって?そんなの決まっている。今年で33になるというのにロクなことがなかった。こんなくだらない世界とはおさらばする。それが俺の最後の望みだった。 「行くか」  そう独り言を呟く。  しかしそんな微かな言葉は荒波によってかき消され、まるで自分の存在そのものを消し去るかのような絶望的で心地の良い空虚さが身を(むしば)んだ。  一歩、また一歩と足が進むーー  軽やかでは決してない。重々しく、しかし迷いは何一つない。ここから身を投げて死んでしまっても悲しむ人なんて誰もいない。それが俺という人間がここいる証なのだ。数日後にはニュースに取り上げられるだろうか?ここは地元じゃない。俺の知り合いには届かないだろうが、この辺りの地元メディアには載るだろうな。そんなのに載っても何にも嬉しくはないが。  それか発見もされずに海を揺蕩(たゆた)うかもしれない。その方が可能性としては高いだろう。そんな予感と傾向があった。実際、日本海の沖合に浮かび魚やらに捕食されるのがオチだと思った方がいい。その方が誰にも迷惑をかけないからだ。 (ああ、もう少しだ。もう少しで俺は……)  そう最後の時を数える。  ゆっくり。しかし確実に終わりを迎える命の灯火。蝋燭(ろうそく)の火種も蝋も何もかも落ちてしまう。そんな時だった。不意に突風が俺の髪をさらった。 「ねえ、そこで何してるの?」  聞こえて来たのは女性の声。しかもまだ若い。振り向かなくてもわかる。 「そこで何してるの?」 「さあ、何だろうな」  俺は無視して適当に返す。  まさか最後の最後で人と会話するなんて思わなかった。 「まさか死のうとしてるんじゃないよね?もったいないよ。命は一つしかないんだよ」 「ふん。だったら俺の勝手だろ」 「勝手かもだけど、そんなことをしても誰も報われないよ」 「俺が報われる」 「それは強情だよ。誰だって死にたくないんだからさ」 「如何かな?そんな希望論だけで生きていけるほど人生は安くない」 「だろうね。私だって同じだから」 「はっ!?」  まさか同じ心境の人間!そんな偶然あるのか?そう思い振り返るとそこにはトレンチコートを着た女性が一人いた。トレンチコートの下には白に青のラインが入ったTシャツを着ており、下はジーンズ。靴は黄色の蛍光色のスポーツシューズだった。変な格好。だがとても美人で年齢は高校生ぐらいか。 「君は誰だ」 「私は(むしろ)。君は?」 「君って……まあいいか。俺は原田吉郎(はらだよしろう)だ」 「吉郎さんか。で、なんで死のうとしてたの?」 「生きるのに疲れたんだ」 「生きるのに疲れた?」 「ああ。景気が悪いのは知ってるだろ。そのせいで会社は倒産。俺もリストラ。金も尽きて生きる気力も失せた」 「家族は?」 「とっくに死んでるよ。俺は結婚なんてしてねえからな」 「そっか……ごめんなさい、変なこと聞いちゃって」 「いやいい。どうせ君も訳ありだろ。だからこんな所にいる」 「ふぇっ?」 「違うのか?ここは有名な自殺スポットだぞ」  物騒なことを俺は口にした。  自殺なんて本当は良くないことだと知っている。だが俺にはもう如何することも出来ない。だからここにいるのだ。 「そっか。でもさ、諦めるのは早いんじゃないかな?」 「はあっ!?」  急に何を言い出しているんだコイツは。  死のうとしているんじゃないのか? 「私は死ぬ気なんて毛頭ないけどね、どんなに辛くて打ちひしがれても死のうなんて考えないよ」 「それは君が幸せなだけだ」 「幸せなわけないじゃないか(・・・・・・・・・・・)」  急に彼女の声音が変わった。神妙な面持ち。何処か哀しみが溢れてくるようなそんな言い回しだ。いや言葉はおかしくない。感情が破裂している。 「生きることを諦めるのなんて単なる冒涜(ぼうとく)だよ。私だって何をしたらいいのかとかそんな軽はずみな助言はできない。でももう少し頑張ってみてもいいと思うんだ」 「知ったような口を言うな」 「もちろん知らないし、君の心境も察してない。察する気もない。私の言葉なんて単なる事情の知らない第三者の持つ倫理的な感情論だから何を言っても無駄なことはわかってるよ。でも少しぐらい生きることを諦めなくてもいいと思うんだ。知ったような口をしてごめんなさい。でもね、少しだけでいいからねぇ、思い出してみてよ」 「なにを」 「自分の明日とかさ」  そんな言葉が耳に届いた。その瞬間今一度激しい突風が巻き起こる。腕で顔を覆い、ふと前を向き直るとそこに彼女の姿はなかった。幽霊?そんな風に思ってしまう。しかし何故だろう。さっきの何の変哲もない言葉が胸の奥で熱く鳴る。“生きろ”と訴えかけてくる。  そんな気持ちに心を背中を押されるように俺の足は次第に陸路へと去って行く。もう少しだけ諦めずに生きてみよう。理由はさっぱりわからない。しかし何故かそんな気持ちにささられていた。
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