覚えていないもの

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覚えていないもの

「ねえ、あなたは覚えてる?落とした針を覚えてる?」  そんな古びた心境が脳裏をよぎり言葉になる。  ここに来るのも随分と久しぶりのことだ。  この街はまるで変わっていない。そうあの時のようにーー 「おーい(かける)何やってんだよ!さっさと行こうぜ」 「ああ!」  俺は親友の大輝(だいき)に急かされるように解けかけた靴紐を結び直す。  季節は春。俺達は高二になった。一年前の春。俺はこの場所で桜が舞い散るのを何でもない光景だとばかりに眺めていた日々を思い出す。風情を楽しむようなタイプじゃない。けど何故だろう。あの日の光景は今でも目に焼き付いている。何だか不思議な気分だ。あの日は確か強風が吹いていた。俺は今みたいに大輝に急かされて同じように靴紐を結ぶために立ち止まっていた。そこまでは覚えている。そうそこまではだーー  あの時気がつくと大輝は先に行ってしまっていた。いつものことだ。あの馬鹿は前しか見えてないから誰かがブレーキ役を買って出ないと点で駄目だった。  確かに行動力も動じない勇気もあって鼻が高い。がそれは同時にアイツの馬鹿さ加減を露骨に露呈(ろてい)する結び目に過ぎなかった。  サッカーをやるといっつも先走るは、ゲームでは攻撃一点方で回復も何もかもをしない。ただの馬鹿でしかなかった。そんなアイツと連むようになって一年が経つと何だか知らないが神妙な気分にさせられる。こんな何でもない青春のひと時が何よりも呆気ないのだ。 「はあー、てかアイツどんだけ体力あんだよ。まだ十五秒ぐらいしか経ってねえだろ」 「そうなんだ。あの子ってそんなに足速いんだね」 「ああ。アイツの体力は異常だからな。体力測定の時なんかどんだけ体力有り余ってんだよって感じた」 「へえー。でも面白いね。私はそう言う子、いいと思うよ」 「何処が。てかアンタまさかアイツのことが好きだとか……」 「えっ!?言わないけど」 「マジかよ。救いねえなアイツ」 「でもいい子なのは変わらないよ。何処までも真っ直ぐな無鉄砲なあの子を助けてあげられるのは君だけなんだよ」 「はあ、何処が?ってか、アンタ誰だよ!」  俺は不意に隣を見た。さっきまで話をしていたが全く知らない人だ。そこにいたのは女性だ。こんな季節なのにトレンチコートなんて着ている。顔は整っていて可愛らしい。凛としていて素敵な人だった。おまけに背も高い。 「アンタ、誰?」 「私?私は(むしろ)登針筵(とばりむしろ)。旅人だよ」 「旅人って……舐めてんの?」 「ううん舐めないよ。それより楽しそうでいいね」 「はぁー。アンタもな」 「アンタって酷いよ。ねぇ、覚えてない?私のこと」 「はっ?」 「ほら去年のこの時期、あったことあったでしょ私と」 「そんなことあったか?」 「あったよ。君が今みたいに靴紐を結んでいた時、私は丁度桜の木下にいた。あの日は強風だったね」 「はあー。ん?」  そう言えばなんか思い出して来た。確かに俺はあの日この人に会っていた気がする。  何をしたとかではないし、そんなに記憶にはないけど何故だろうとても懐かしい気分なる。 「でもよかった。あの子も君も生きている。それだけで万々歳じゃないかな?」 「はあ?」 「助けたんでしょ。私の助言覚えてない?」  助言?そんなのあったか。  だが確かにあの日ほんのちょっと一言だけ会話をした気がする。それはアイツのことだった。アイツがこの後事故に遭うから助けられるのは今だけだ。そう言われた気がする。  そうだ思い出した。俺はあの日確かにアイツの事故に遭遇した。マナーは守るアイツだ。確か横断歩道で信号が変わるのを待っていた時、アルコール摂取しながら運転して来た奴に殺されかけてーーそうだ。あの日俺が割り込んで俺はアイツを助ける際にこけて足首を捻挫(ねざ)したんだ。そうだよ。あの時から俺はアイツと知り合ったんだ。でも何でーー 「じゃあ何でアンタはアイツが事故に遭うって知ってたんだよ」 「さあなんでかな?」 「さあって!うわっ!」  その瞬間強烈な突風が吹き荒れた。顔を上げられない。俺が顔を上げると、そこにはあの人の姿は何処にもなかった。  登針筵。俺はその人の名前を生涯忘れることはないだろう。桜の木下で出会った不思議なトレンチコートな不気味な女性。あの人は何者なのか、それは俺が知る由もない。
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