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夏休みが終わって一週間。ざわめきの戻った校舎はいまだ浮ついた空気で満たされている。
部室として使用している社会科準備室までの廊下を歩きながら、清巳は首筋を伝う汗をシャツの襟で拭った。暦も九月に入り、茹だるような暑さは猛攻を幾分かはやわらげ始めたが、残暑とはまだ言えない。廊下の窓から見える山の濃い緑とくっきりと青い空のコントラストが目に眩しかった。
無人の教室をいくつか通り過ぎ、薄暗い行き止まりにある部室のドアをノックする。
「失礼します。先輩、次のネタができましたよ」
ドアを開けざま告げたその言葉に、奥の椅子に座っていた遠野がぱっと顔を上げた。一拍おいて破顔する。暑さをまるで感じていないような涼し気な表情が、一瞬であどけないものになる。
「よくやった須藤君。で、一体何事かな?」
「このくそ暑い時期に、見事な紅葉が見られる場所が徒歩圏内にあるそうです」
「いいね。詳しく詳しく」
「ちなみに先輩、ジュースはコーラに限りますよね」
「おごるのは案が採用されてからだよ」
軽口をたたく遠野の顔は明るい。向かいの椅子に座り、鞄からノートを出す清巳もまた、すました顔をしながらもどこか勝ち誇ったような感情を隠しきれていない。
二人で執筆している校内新聞のテーマがずっと決まらず、ついに締め切りが一週間を切ったのが昨日のことだ。夏休み中には執筆にとりかかれるだろうと高をくくっていた二人は頭を抱え、先に案を出した方にジュースをおごるという賭けにまで発展していた。
わくわくした顔の遠野をじらすように、清巳は持参した水筒のお茶で唇を湿らせてからノートを開く。栞を挟んでいるページに、昨日聞いてきたばかりの話をメモしていた。
「その紅葉を見に行った奴って僕のクラスメイトで、坂内っていうんですけど。なんか今呪われてるっぽいんですよね」
○
清巳のクラスはおとなしい生徒が多い。その中でもひと際おとなしいのが坂内という男子生徒だった。とはいえ友人がいないというわけでもなく、休み時間は似たようなタイプの生徒と数人で談笑している。教室で孤高を貫いている清巳からすれば、まっとうでどこにでもいるクラスメイトという認識だ。
その坂内が夏休みが明けてから一度も登校していない。
友人たちが心配して連絡を取ろうとしているようだが、返信も鈍く、学校には体調不良で休みと届け出が出されていた。
坂内と仲のいい彼の友人たちではなく、クラスメイトという点以外の接点がない清巳が休み中のノートやらプリントやらを届けるよう担任に頼まれたのは、何のことはない、単に清巳が暮すアパートから徒歩一分で、彼のマンションに着くからだ。
「須藤ってオカ聞だろ……?」
プリントだけ渡して帰ろうとした清巳を引き留めたのは坂内本人だった。久々に見たクラスメイトは、夏だというのに青褪めて、布団にくるまっている。何かを気にするように、しきりに辺りを窺う素振りと相まって、その姿は異常だった。
出された茶菓子を口に放り込みながら清巳は頷く。正式名称は夕映中学新聞部だが、記事の内容ゆえに、校内ではもっぱらオカルト新聞部、略してオカ聞と呼ばれている。
「そうだけど」
「じゃ、じゃあさ、やっぱ、なんていうか、その、そういうの詳しかったりする……?」
「そういうの?」
「その、怪奇現象……的な」
「そりゃそういうのメインでネタ集めたりしてるけど」
ごくんと口の中のお菓子を飲み込む。
「なに、ネタになりそうなことでも体験した?」
冗談半分で口にした一言に、坂内がびくりと肩を揺らした。長い前髪の隙間から覗く、すがるような目に、これはガチだろうかと清巳も真面目な顔になった。
「話してよ。締め切り近いのに、次のテーマが決まらなくて困ってたんだ」
そう言った清巳に、坂内が震える唇を開閉する。しばらくして、絞り出すように「嫌な予感はしていたんだ」と言った。
坂内がそれに気づいたのは、ちょうど六日前の夜中だったという。夏休みの終わる、二日前。
彼が両親と暮らすマンションは十階建てで、一階から屋上に続く階段はあるが、住人は主にエレベーターを使っている。住人たちは皆似たような生活スタイルで、活動時間は基本的に朝七時頃から夜九時頃、夜中に出歩く人間はほぼいない。いないのに。
――真夜中に、一階から階段を上ってくる何かがいる。
坂内は最初、それを「夢だと思った」と言った
坂内家の部屋は最上階にある。一階の物音なんて聞こえない。なのに坂内はその夜、何かがマンションのエントランスを抜けて、階段を上っているとはっきりと認識したのだという。
「意味わかんないだろ……? 十階の、自分の部屋にいるのに、なんで、あ、いまエントランスに何か入ってきた、階段上ってきてるって思うんだよ」
頭を抱えて坂内はそう呻いた。
「でも確かに、わかったんだよ。何か来たって。でも、ありえないから、夢かなって」
一日目、それは階段を一階分上った。
朝、目を覚ました時には、奇妙な違和感を残しながらもおぼろげな記憶として曖昧になっていた何かは、次の夜には二階の階段を上っていた。
(二日続けて連続する夢って、なんだか気味が悪いなあ……)
始業式当日の朝。欠伸をしつつ居間に出た坂内は、テーブルに座る母の様子がおかしいことに気付いた。普段垂れ流しにされているテレビもかけられておらず、母は青い顔で手帳を睨んでいる。
「母さん?」
「……あ、おはよう。和也」
声をかけてようやく坂内に気付いたらしく、母が取り繕ったような笑顔になる。
「何かあった?」
へたくそな笑顔がすっと消えた。代わりに現れたのは焦燥感。
「和也、あんたお兄ちゃんから何か聞いてない?」
え、と一瞬喉が詰まった。三つ年上の兄は幼いころから気性が荒く、高校に入ってからはガラの悪い友人たちとよくつるんでいる。おとなしい弟からしたら、できるだけ距離を置きたい相手だった。特に、先日のことがあってからは。
「兄ちゃん……とは何も……、兄ちゃんがどうかした?」
「三日前に、お友達の家に泊まりに行ったでしょ? 向うの親御さんからさっき電話来て、お兄ちゃん帰ってきてないかって……お友達もお兄ちゃんの姿も、おとといの朝から見えないって」
違う子の所に泊まりに行ったのかと思って電話をかけてみているんだけど、誰の所にも行っていないって。どうしたのかしら、家出? 警察に届けたほうがいいかしら? 他にもいなくなっている子がいるみたいなの。おろおろと続ける母の言葉を聞きながら、心臓のあたりがすぅと冷えていくのを感じる。
三日前、兄が家を出る前に電話をしていた姿を思い出した。
――だから、気にしすぎだって。ビビってんの? だっさ。……ああ、わかったって。うるせぇな。じゃあ今日泊まりに行くからよ。あ? だってお前んちアパートの三階だろ。今日しかないじゃん、昨日二階まで上がってきたんだったらよ――
(階段を上ってくる、って言っていた)
電話の相手はよく兄とつるんでいた、素行の良くない人だった。あの時も、兄と一緒にいた人だ。ぞわぞわと背中を悪寒が駆け上がる。
「……他にもいなくなった人がいるって……、例えば……?」
「え? ええとほら、お兄ちゃんと仲のいい子たちよ。この間も一緒にどこか出かけて行ってたでしょ? 瀬尾君、佐藤君、上田君の三人」
呼ばれる名前に心臓が握りつぶされるようだ。全員、知っていた。兄を含めて、彼らがどこに行って、何をしていたか。自分もそこにいたのだから。
だからきっと次は僕の番だ。
○
「心当たりはあるんだよ」
話してるうちに落ち着いてきたのか、顔色の悪さはそのままだが、幾分か冷静な様子で坂内がそう言った。
「先週、兄ちゃんたちに連れられて、紅葉を見に行ったんだ」
「紅葉? ……いま時期に? めっちゃ蝉鳴いてるけど」
「そう、紅葉。こんな暑いのにさ、紅葉がすごい山があるって、兄ちゃんの友達が。それでみんな行こうって。僕はたまたま家にいたから、荷物運びで連れてかれて」
燃えるような赤、赤、赤。冗談だと思いながら訪れた先、確かに山の一角にそこはあった。不吉なくらい美しい、真っ赤な景色。
「いなくなった人たち、みんなその山に行ってからなんだ。多分、行っちゃいけないところだったんだよ、あそこは。だってあんな、変な……だからきっと、山から何かついてきて、階段を上ってきている。それがいま、ぼくのとこにも来ようとしてるんだよ」
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