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○
「たぶん、普通に良い奴になって戻ってくるんでしょうね」
夜になると気温が下がり、少しは過ごしやすい。ベランダの柵に寄りかかった清巳は、スマホを耳と肩で挟んでコピーした資料を眺めた。
「今回いなくなった人たちに関してもそうなんだろうね。でもなんか、今までなかった状況が追加されているのが気になるんだよなあ……」
スマホの向こうで遠野が不思議そうにつぶやく。小首をかしげる姿まで想像できた。
「一度山から帰ってきた人間の所に、何かが追ってくるっていうとこですか?」
「そう。今まではあくまで山へ行ったまま行方不明になってるじゃない。追ってきているなにかは、なんで一度山から獲物を返してしまったんだろう? 逃がした所で追ってくるなんて、二度手間でしかないでしょ? それに紅葉なんて、初めてのパターンだよ。あえて目立つ振る舞いをして、まるで誘いだそうとしているみたい」
「うーん、確かにそうですけど。いままでもあったけどメモがなかっただけじゃないですかね? 紅葉の件はともかく、そもそも前回の“お返し”が十三年前で、その前が更に二十年さかのぼるわけですから。そんなに時間が経てば、何かしら山側にも変化があったのかもしれない」
「変化ねぇ」
「……先輩、眠いです?」
んん? と誤魔化すような声がふわふわしている。
「明日から修学旅行でしょ。荷造りとか終わったんですか」
「ばっちりだよ。君こそ、明日の取材準備はできているの」
「抜かりなく。授業終わったらすぐ現地に向かいます」
ちょうど明日は午前授業だ。昼過ぎには学校を出られる。
「頼んだよ清巳君。いくら君と言えども、多分結構、本当に危険だから。とりあえず実況中継がてらラインして」
「ぶっちゃけめっちゃ行きたくないですけどね……。先輩も旅行先で気を付けてくださいね」
ありがとうとふわふわした声が柔らかく囁いて通話が終わった。スマホを尻ポケットに押し込みながら、資料にもう一度目を通す。
(不穏だよなあ)
そもそも山というのが不穏なのだ。言ってしまえば山は身近な異界だ。それも諸々の噂つき、今なら季節外れの紅葉までついてくる。不穏のオンパレードだ。
(まぁ僕はもうすでに呪われているようなもんだし。呪いと呪いでぶつかり合ってお互いの影響が消えたりとか……はさすがに都合よすぎか)
先輩も一緒だったらよかったのにとため息をついた時だった。
「や、良い夜だねェ」
かけられた声に振り向くと、隣室のベランダに男が一人立っていた。ふっと煙草の匂いが鼻をくすぐる。脱色した髪を無造作風にセットして、短い眉尻と左右の耳にいくつもピアスをつけた、血の気のない白い男。瞳孔が縦に細いつり目を見るたびに、清巳は爬虫類のような人だなと思う。爬虫類は好きじゃない。
「榎本さん。こんばんは」
「はいよォ、こんばんは」
隣人の榎本は常と同じくにやにやと笑っている。どことなく得体が知れず、正直なところ清巳はこの男が苦手だ。だが今回ばかりは苦手だからとそそくさと部屋に逃げ込むわけにもいかない。
「なァに、彼女と電話中だった?」
「部活の先輩です。あの、榎本さん、今回はありがとうございます。香迦師山への入山許可をいただいて」
「いやァ俺は話を通しただけだしねェ」
大したことはしていないさと笑う顔をじっと見つめる。
先日の夜、風呂上りにベランダで涼んでいた時のことだ。煙草を吸うためにベランダに出てきた榎本と世間話をする羽目になった。他人となるべく距離を置きたい割りについつい深入りしがちな清巳にとって、得体のしれない話好きな隣人とは相性が悪い。気が付けば相手のペースに乗せられて、立入禁止の山へ取材に行きたいのだという話までしてしまっていた。
――その山の管理人なら俺の知り合いだなァ。話を通してあげようか?
まるで今日の夕飯の話でもするような軽い口調で言われた言葉に、清巳は慌てて飛びついた。“素行に問題のある人間が近寄ってはいけない”なら、立入禁止の場所に無断で入るのはアウトだろうと頭を悩ませていたのだ。
――その代わり、出来上がったらその新聞俺にも読みたいなァ。部外者じゃだめ?
それくらいなら全然問題ないですよと力強く返した翌日、「山、入っていいってェ」とヘラヘラと言われたのだ。
「あぁ、取材。明日だっけ?」
「はい。そんなに深入りしないでおこうとは思いますが。遭難しても嫌だし」
「あはァ、確かに。気を付けて行っておいで。……呪いの上塗りは危険だからねェ」
笑みを含んだ口調で言われた言葉に一瞬呼吸が止まる。呪いの上塗り。
(上塗りって、)
榎本はにやにやと笑っていて、その笑みはいつも通り底が知れない。何を考えているのかその表情からは窺い知れなかった。
きっとこの人にも深入りはしない方がいい。
「……はい。それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみィ」
ひらりと振られる手に会釈を返し、部屋に戻った。カーテンを閉めて、大きく息を吐いた。恩があろうとも苦手な人間と話すことほど疲れることはない。
「寝よ……」
ベッドにもぐりこんでスマホのアラームを設定する。ラインが一件入っていて、見れば坂内からだった。彼にも明日山へ行くことは伝えてある。どうか気を付けて、巻き込んでごめんという内容だ。まったくだ、と思うと同時に、彼とて今夜も見るだろう夢に怯えているはずなのに律儀だなあとも思う。適当なスタンプを返して電源を落とした。
とにもかくにも、全ては明日だ。
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