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ぼんやりと母親の顔が浮かんで消え、頬をかすめるように空気が触れた。空振りだ。それでも、ひんやりと冷たい夜気が気持ちいい。頭上には夥しい数の光を浮かべた空がみえた。
「はは、ミスった」
「うるさいな。おまえもやれよ」
「オレ?」
「そう、打ってみろ」
ミナミはバットを下ろして、ネットの後ろの男ににやりと視線を送る。
「しょうがねぇな」
「ホストくんのお手並み拝見だな」
「くんづけするな」
男は銀髪を後ろに結わえて、不満げな顔を覗かせてバットを持った。ホームベースの上で軽くスィングさせて鈍った身体をほぐした。
チカチカと電光がはためく。ボールがまっすぐと飛びこんで、男は大きく振りかぶった。
美しい狼が眼を光らせ、白銀色の毛を逆立てて、ゆらゆらと夜風のなか靡いて揺れめくようにみえた。
歳は二十歳だろうか、透き通るような白い肌が手首からみえた。そして長い体躯にすらりと伸びた足に逞しい胸板。少しも遜色がない完璧な容姿と絶美。肩を並べる奴なんていないほどの美貌なのは頷ける。
なんとなく、ミナミの胸の底でむかむかとした気持ちが波立った。
アルファなんて、嫌いだ。
オメガも、嫌いだ。
そんな風に思ってしまう卑屈な自分も嫌だ。
パス。
ボールはかすりもしないで、はじけるように飛んで落ちた。あっけに取られて、男の大袈裟な動きにミナミの頬が心なしか緩む。
「嘘だろ。ふは、下手くそかよ……」
「うるせぇ、もう一回!」
男は悔しそうに正面を向いて、赤い点滅を睨み付けてバットを持ち上げる。次は少しだけかすったのか、鈍い音が耳をかすめた。
「さすが、アルファさま。上達がはやいな」
「関係ねぇよ。くそ! またかすった!」
数回打つとすっかり調子がでてきたのか、男は夢中になってしまう。コインを追加してやり、ミナミは週一の楽しみを分けてやった。何も言わずにベンチに腰を下ろして身体を休め、誰かとこんなに話すのは久しぶりだなと思った。弟の日向とでさえこんなに気兼ねなく喋ったことがない。
「ほら、上半身と下半身のバランスを考えろ」
「あ? お! すげぇ!」
男が腰を沈めて、バットを振る。乾いた音がなってボールがバウンドして跳ねた。
男が振り返って、二人は顔を見合わせて笑う。満足したのか男はブースから出て、ミナミの前にやってくる。銀髪がふわりと風に舞って揺れ動いてみえた。
「あのさ、なんで夜の仕事なんてしてんの?」
「金が必要なんだよ」
「金? 借金かよ。家族は?」
一瞬、言い淀んで口をつぐもうとしたが、表情をかえずにミナミは話を繋いだ。
「事故で亡くなってる。弟が病気なんだ」
「……びょうき? そんなにかかるのか?」
ちらりと横目でバットを置いて出て隣に立つ男をみる。心配しているわけでもなく、アイスグリーンの瞳は好奇心を宿していた。
「かかるんだよ」
「ふーん、大変だな」
「そう、大変なんだよ。だから、俺にかまうな」
男はミナミの隣に腰を下ろした。ミナミはじっと前を見据えて、遠くの尖ったビルに視線を流した。
「……おまえさ、オメガの多頭飼いって知ってる?」
遠くから夜光虫のように密集するネオンがみえる。男の声に嫌悪がこもって聞こえた。
「多頭飼い? なんだよ、急に」
「知り合いと一緒に飼われたオメガを探してるんだよ」
「……飼われた?」
横目でそっと眺めると、男の表情は陰になって見えなかった。ベンチに置いてあった黒のニット帽をかぶり直している。
「そう、オメガを咬んで番にさせる。逆らえないのを利用して服従させて、闇で貸し出すんだよ。発情期のときに数人で相手させて、酷いプレイを強要する。それでもオメガは泣いて悦ぶ。使えなくなったらヤク漬けにでもして、ヤクザの相手か輪姦して棄てるんだ」
「都市伝説だろ」
「しらね。噂で聞いた。ホスラバとツテを辿っておまえの店まで来たけどな」
ホスラバとは水商売関係者がよく利用する全国掲示板のひとつだ。地域ごとにキャバ嬢やホスト、キャバクラにホストクラブの経営者までの動向がこと細かに書き込まれている。
炎上して書かれた嬢は病んで夜を離れることも多々ある。それほどホスラバは情報が早く恐ろしい。ニュースにならない自殺する嬢のことまで詳細に調べられる。ホストに入れあげてヤミ金にまで手を出し、同僚にも金を借りまくって自殺してしまったなんて日常茶飯事だ。
嫉妬、憎悪、妬み、あらゆる感情が渦巻いて夜の街の縷々とした夜話を絶えず綴っている。
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